宣教 「絶望するあなたを支える愛」 森島 豊牧師
詩篇 139篇 7-12、
マルコによる福音書 15章 33-41
生きているなかで、「もうお終いだ」と叫びたくなる経験を一度くらいはすることがあります。旧約聖書の詩編139編に「陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます」という言葉があります。聖書が語る陰府とは、神がお見捨てになった者が行き着くところです。そこでは神の御手も届かない。神を感じる事ができない場所です。「もう終った。神もとうとう私を見捨てた」。そう叫びたくなるところです。その場所でこの祈りの詩人は「見よ」と驚きの声を発します。「見よ、あなたはそこにいます。」
生きているといろいろな絶望を経験することがありますが、神のない絶望こそ、ほんとうの絶望です。神のない絶望は、神のある絶望とは、全くちがうのです。神を知っているがゆえに、本当の絶望を克服できるのです。その道を拓いてくださったのは主イエス・キリストの十字架です。
主イエスが十字架につけられた時、マルコによる福音書は、全地が暗闇になったと伝えています。神が御顔を隠された。それは闇の世界です。そこが主イエスがご自分から身を置かれた場所です。主イエスはそこで「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。主イエスは、神の御手が届かない場所で、神がご自分を見捨てられたところで、「わが神、わが神」と叫ばれたのです。その言葉が意味することは、主イエスが、ご自分がなぜ捨てられたのかと問いながら、なお最後まで神を神と呼ばれたということです。そこでも罪を犯すことをなさらなかったと聖書は証言しているのです。
「なぜ私をお見捨てになったのですか」。この言葉の一つの意味は、自分が死ななければならないということです。人は誰でも死にます。けれども、ここでは、神のみ心に従って、十字架の死を死ぬということです。神が、み子を十字架につけようと考えておられた。そのご計画の中に、主イエスが置かれ、主イエスご自身が、それを知っておられて、その神のみ心に従おうとされたのです。
私どもの無理解、傲慢、利己心、思い上がり、それらがこの深刻な結果を招いたのです。しかも、主イエスは、その十字架において、私どもの罪を負われたその杯の最後の一滴までも飲み干してくださったのです。ですから、私どもは皆死ぬ時が来ますが、神に捨てられる死を死ななくても良いのです。たとえ墓の中に入っても、そこにも主がおられるのです。十字架のキリストを信じるとは、こう言えることです。
主イエスがこのように息を引き取られたのを見ていた百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と言いました。百人隊長は神を信じていた人ではありません。仕事として主イエスの十字架を一番近くで見ていた人です。その人が「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。それはこの人の洞察力がどれほど優れていたかということではなく、この百人隊長の心を神がお開きなったのだと思います。その神があなたの心もひらかれます。すべての人たちに、神が御手を伸ばされて、この百人隊長に与えた同じ信仰の言葉を与えられますように、祝福を祈ります。
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