一テモテへの手紙3.14~16 (2018.7.8 )
6月の礼拝ではパウロによる第1回の伝道旅行の一部を2週にわたって読みました。そこで話題になったことの一つは、助手として同行したヨハネ・マルコの動向で、彼が旅の途中で一行から離れて帰ってしまったことでした。そのため第2回の伝道旅行では、パウロはマルコを連れていくのに反対いたします(使徒15.38)。そこで結局パウロはバルナバと別々の道を行くことになり、マルコはバルナバと行動を共にすることになりました。今日の手紙の受取人テモテ、彼はパウロの第2回伝道旅行以降、マルコに代って一緒に行動する人です。その様子は使徒言行録16章に記されています。それによりますとテモテは、リストラとイコニオンの地方で評判の良い人であったと紹介されています。母親はキリスト教信者であり、父親はギリシア人でした。また2テモテ書によれば、その母親の名前はエウニケ、さらに祖母はロイスと言い、3代目のクリスチャンであったとも書かれています(1.5)。このテモテはとても良い働きをなし、使徒言行録や書簡などを読みますとパウロからの信任厚い人物でした。その伝道者テモテがエフェソに滞在しているとき、マケドニアにいたパウロが送ったと言われる手紙が本書です。「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています」。
そこで次のように勧めの言葉を述べます。「行くのが遅れる場合、神の家でどのような生活をすべきかを知ってもらいたいのです」。神の家、すなわちそれは教会のことです。それを次のように語っています。「神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」。ここには教会とは何かが記されています。神の教会とは真理の柱、真理の土台から成り立っているということです。真理の反対は偽りです。ただ双方は正反対ではありますが、いつもその違いが明確となるわけではありません。先週、オウム真理教(この団体もまた「真理」という言葉を使っています)一連の裁判を経て、死刑執行がなされました。死刑制度そのものの当否は別にして、この事件は重い課題をわたしたちの社会に投げかけつづけてきました。なぜあのような事件が宗教の名を借りて、また真理の名によって起こったのか、そして今もその流れを引き継いだ信者がいるとのかという問題は依然として分からないままです。「信心の秘められた真理」と今日の箇所にありますように(16節)、真理は一面においては秘められている、秘められた真理なのです。これを英語訳聖書ではミステリー(ギリシア語でミュステーリオン)と訳しています。そのように隠されている面があるのですから、今はまだわたしたちには明らかにされていないことに耐えていかなくてはなりません。
それでもキリストの教会は真理を柱、土台としています。柱、土台とは一番基本となるものです。これもまた先週から今週にかけての出来事であり、今も心痛めていることですが、特に西日本地方が記録的な大雨による大災害に見舞われています。そこで被災された方々や、今も救出活動のさ中にある方々のために祈るものでありますが、わたしは毎年のこうした災害(国の内外を問わず)を目にするたびに、人間の存在の脆さ、不安定さを改めて思います。普段何事もないときには、盤石とまではいかないまでもわりと安定しているように見えますが、いかにそれがもろく薄っぺらな生活かがこうした出来事において如実に現されます。まさに主イエスが山上の説教の中で言われたとおり、「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」とある通りです(マタイ7.27)。しかしわたしたちの命の源である教会は、真理の柱と土台で成り立っています。同じように雨が降り、川があふれ、風が吹いて家を襲うことがあっても、それでも決して倒れません。またそうした試練は決して耐えられないようなものではなく、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えられているのです(1コリント10.13)。
ならば教会の柱となり土台でもある、その真理とは何でしょうか。それは礼拝であり、そこで語られる御言葉による宣教と聖礼典と言えます。それだけではありません。礼拝の中には祈りがあり、賛美があり、信仰告白もあります。その一つがここに記されています。「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」。これは当時の教会で一般になっていた「キリスト賛歌」だと言われています。また「信仰告白文」とも言われています。現在の「使徒信条」のような三位一体の告白とは違い、キリストを中心とした内容ではありますが、これもまた当時の教会で告白されていたものです。このキリスト賛歌の告白文、きれいに6行で整えられた韻文となっています。しかも各動詞はすべて受動態で成り、次に前置詞、そしてその次に「肉」とか「霊」という日本語では最初に来る言葉が続いていて、3単語で1行を構成しているのです。その6行詩、内容から見れば、2行を1組として3組と受け取るか、あるいは3行が1組となって2組の詩と理解するかは解釈の別れるところです。
「キリストは肉おいて現れ」、これは言うまでもなくイエス・キリストが人間としてこの世に来られたというクリスマス以降の出来事を指したものです。そのキリストが霊において義とされました。肉と霊は相反する次元としてよく一緒に聖書では語られます。キリストが地上の生涯は僕として仕える歩みをされたのと同時に、神の子としての霊的な存在でもありました。だからこそ「天使たちに見られ」とあり、彼らに仕えられていたのはそれゆえのことでした。さらにキリストは「異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ」と続きます。これは当時も、そして現在も続く宣教のことでしょう。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という大伝道命令に基づいたものです(マタイ28.19)。そして最後は「栄光のうちに上げられた」で結ばれています。この「上げられた」とは天に上げられたという意味で、復活後のイエスの昇天を表しています。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」とある通りです(マルコ16.19)。このように見ますと、1行目の「肉おいて現れ」の受肉と、6行目の「栄光のうちに上げられた」の昇天という枠でまとめられた、キリストの出来事が記されているということになります。
このような告白をする教会、そしてこの告白に表されているイエス・キリストのさまざまな救いの業をわたしたちが心に留めていくとき、そしてまたそれを信じていくとき、それが真理の柱、真理の土台のもとで立てられた教会という共同体になっていくのではないでしょうか。そうした柱、土台は教会以外には、いかなるところにも存在しません。それゆえわたしたちは動かされることなく主イエス・キリストを信じる信仰の道をひたすら歩み、またその真理を宣べ伝えていくようにと召されているのです。