ローマの信徒への手紙1.24~32 (2019.6.2)     

 自由はわたしたち人間にとっての非常に大切であり、生きていく上でなくてはならないものです。その自由について考える場合、皆さんはどのような自由を思い浮かべるでしょうか。もちろんそれはどの国に住んでいるかによって、大きく異なってくると思います。わたしたちの国では、思想信教の自由とか、言論の自由は憲法で保障されていますから、その有難みはあまり感じないかもしれません。しかし今でもそうした基本的な自由が与えられていない人びとが世界には多くいます。彼らにとってはそうした自由へのあこがれがいかに大きいかは十分に想像できます。その自由とは社会的・政治的なもの、人権としての自由です。

  聖書においても自由は重要な用語として出てきます。その自由とは宗教的なものであり、神との関係から生まれる自由です。そこで語られる代表的なものは、ルターの「キリスト者の自由」ではないでしょうか。以前読書会に参加された方は覚えておられることと思いますが、二つの言葉によって定義づけられています。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、誰にも服しない」。しかしこれだけでは自由を語ったことになりません。もう一つが並行しているからです。「キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、誰にでも服する」。このように相矛盾するように見える二つの命題によってしか、自由は言い表せないのです。

 ローマ書1章の最後を締めくくるに当たって、パウロはその自由、しかもこの場合は履き違えられた自由について語っています。それを三点にわたって述べています。まず一点は、これは前回にも触れましたが、偶像礼拝に向かった人間の誤った自由です。25節で人間は「神の真理を偽りに替え」たと語ります。神の真理とは、この場合具体的には、次に語られているように、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えていることです。これは人間の宗教心の転倒した姿です。造り主、すなわち主なる神のみが永遠にほめたたえられるべき方であり、それ以外はすべて被造物、滅び去るものでしかありません。それなのに肝心の造り主を差し置いて、被造物のひとつである人間が同じ被造物を拝んでいる。前の箇所でも「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」とありました(23節)。滅び去るべき人間が創造主から離れて、同じ滅び去るべきこの世界のもの、それが英雄的な人間であったり、そこから生まれた権力であったり、また様々な被造物の像であったりするわけですが、そうしたものを崇めたり、礼拝したりするのは、まさに人間の罪の姿に他なりません。

  二点目は男と女の関係、言い換えれば性の関係、そして家族の関係ということも可能です。今日のわたしたちの社会では性の多様化が見られ、その中で性的少数者の人々が名乗りを挙げ始めています。LGBTという言葉で言い表される人々の人間性が叫ばれ、少しずつ市民権を獲得するようになってきました。先日は台湾で同性愛の結婚がアジアで初めて合法化されたと報じられていました。これはキリスト教会でもさまざまな角度から現在も論じられています。神の前における人間、それも神の似姿として造られた人間とはどのような存在なのか、そしてそこから生まれる他者との関係はどのようなものなのかを真剣に考えなくてはならないことだと思います(創世記1.27)。

 ただ今日の聖書に出てくる性の関係は、「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました」(26節)とあるように、そこでは神との関係から逸脱したところの人間の歪んだ自由と、そこから生じた放縦を指摘したものでした。偶像礼拝と同じように、人間の神なしの履き違えた自由が、このような人間の関係をもたらしているのです。ここに「まかせられた」という言葉を用いています。それは神が積極的に罰を与えるとか、裁くということではなく、人間のなすがままにされたということであり、そのことによって人間は恥ずべき世界に陥り、結果として自らを罰しているということになるのではないでしょうか。

  三点目では、さらに広く社会的な関係の乱れが述べられています。これも神から離れた人間の自由の履き違えです。28節でこうパウロは語ります。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」。「無価値な思い」、それが次に悪のリストとして出てきます。数えてみますと、何と21もあります。よくもまあ、これだけ細かく罪悪の何たるかを分けたものだと思います。そこで気づくことは、これらはすべて現在のわたしたちも陥っている「無価値な思い」だということです。われわれはコンピューターを扱い、月にロケットを飛ばすことのできるほど文明化しています。しかしこと人間の本質そのものにおいてはまったく進歩することなく同じであることに気づきます。家庭において、学校・職場において、地域社会にあって、そこには「悪意に満ち」た行動があり、「不和」があり、「むさぼり」もあり、「親に逆らい」もあります。さらに「殺意」も出ていますが、それを見ると先日川崎で起きた痛ましい殺人事件を思わざるをえません。「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました」。

 今日の聖書の箇所には「まかせられた」という言葉が3回使われていました(24,26,28節)。28節だけは「渡され」と訳していますが同じ言葉(ギリシア語のパラディドーミ、英語のgive up)です。これはきつい言葉で、犯人を捕らえて法廷に引き渡すという意味でもあります。それはイエスが捕えられて十字架の道を歩まれたときにもしばしば使われています。「人の子は、十字架につけられるために引き渡される」(マタイ26.2)というようにです。「神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ」た。「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられ」た。「神は彼らを無価値な思いに渡され」た。イエス・キリストはそのようなどうしようもない肉なる思い、背負いきれないわたしたちの罪を、自ら十字架の死に引き渡されることによって担ってくださいました。すべてのことは確かに人間には許されているかもしれない。けれどもすべてが益になるわけではありません。むしろその自由という名の欲望、情欲、無価値な思いに振り回されることによって、人間の不自由な闇の世界があらわにされている現実を思わされます。神との縦の絶対的な関係から離れたところには、人間の自由はありません。そこにはただ自分中心の放縦があるだけではないでしょうか。そしてその中で今日もわたしたちは、人間は悩み苦しんいます。しかし主イエス・キリストは、そうしたわたしたちの重荷を背負い、赦し、わたしたちと共に歩んでくださっているのです。だからこそ、喜びと生きる力があるのではないでしょうか。