ヨハネ20.19~31 (2018.4.8)

主イエスの十字架の死と復活の出来事は記述に若干の違いこそあれ、4福音書すべてに記されています。復活について言うならば、あの死の墓からのよみがえりのメッセージはすべての福音書に共通しています。ただその劇的な復活をもって福音書を閉じているか、それとも後日談のような記事を加えられているかでは、幾つかの違いがあり、それが4福音書にそれぞれの味わいをもたらしています。たとえばルカ福音書には、復活後にエマオへ2人の弟子と旅をするイエスが出てきます。ここヨハネによる福音書には、故郷ガリラヤに戻った弟子たちとティベリアス湖で魚を取る記事が記され、その後にイエスがペトロに「わたしを愛するか」と3度問い、新たな宣教へと押し出す遣り取りが出てきます(21章)。やはり同じヨハネの記事ですが、復活後のイエスが弟子たちに現れ、中でもその1人トマスに向かって「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われた有名なところもあります。それが今日の箇所です。

主イエスが死の墓からよみがえられたとき、まず女の弟子たちにご自身を現されました。それはイースターの朝のことでした。その日の夕方のことです。男の弟子たちはどうしていたかと言いますと、ある家に集まっていました。何をしていたのでしょうか。祈っていたのでしょうか。そうでもないようです。彼らはユダヤ人を恐れて、中にこもっていたのでした。しかも家の戸に鍵をかけていたとありますから、いかに恐れが彼らを支配していたかが分かります。ここにはまだイースターの喜びと力がおとずれていなかったのです。そんな弟子たちの真ん中にイエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われました。平和、平安、これはユダヤの言葉ではシャーロームと言い、朝であろうと夕であろうと人々の間で用いられる挨拶の言葉です。「ごきげんよう」というような感じでしょうか。それだけではありません。平和、平安とはさらに宗教的な意味を持ち、神との関係において内面おいても外面においても満たされた全き状態を指し、さらにはもっと広い意味で社会全体の平和へとつながっていく言葉でもあります。この言葉が復活のイエスによって3回も使われたのでした(19, 21, 26節)。

主イエスは弟子たちに自ら受けた十字架上での傷をお見せになりました。ここに来て、初めて弟子たちに喜びがおとずれました。「弟子たちは、主を見て喜んだ」がそれです(20節)。そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われました。「聖霊を受けなさい」(22節)。復活のイエスが弟子たちに息を吹きかけられた。それは神が約束された聖霊を与えられたということで、人はそれによってまことに新しい命に生きる者となりました。たとえば創世記に人間の創造が出てきます。「主なる神は、土の塵で人を形づくり」(2.7)。わたしは毎朝6時からFMで音楽を聞いていますが、今年の受難節からイースターの頃にハイドンのオラトリオ「天地創造」が流され、いい曲だなと思って聞いていました。もちろんそこには人間の創造も歌われています。しかし人は土の塵だけで成り立っているのではありません。その次に「その鼻に命の息を吹き入れられた」とあります。そこで初めて人は生きる者となりました(創世記2.7)。復活の主イエスが弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けよ」と言われたのは、その旧約聖書の創造と深く関係しています(ある意味で今日の箇所は第2の創造)。

それだけではありません。イエスは弟子たちに、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と、ここで新たな使命を授けられました。このときまだ弟子たちは家の中に内向きに閉じこもっていました。そのような弟子たちに向かって、外へ向かって派遣の使命を与えられたのです。これは彼らにとって大きな力であったに違いありません。主の言葉を宣べ伝える伝道、証し、それらは人間の力で行うのでも、人間の熱心さ(自分に自信があるからとか、ないとからとかというものでなく)で行えるものでもありません。そうではなく主イエスからの派遣命令によってなされていくものなのです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。これは教会的な権能です。不安定で恐れに支配されていた弟子たちに、このような教会としての役割を託されたのでした。主キリストの復活から50日目に教会が誕生したペンテコステがおとずれます。今年は520日です。そのようにイースターとペンテコステは別々の出来事ではありますが、また一つに重なった出来事でもあるのです。それは主の十字架と復活が、ある意味では一つであるようにです。イエスが息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われ、内向きな弟子たちを新たな派遣のために外へ押し出されたのはそれを意味しています。

この場所には12弟子の1人トマスがいませんでした。トマスは自分の留守中のことを他の仲間から聞いたとき、「あの方の手に釘跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言いました(25節)。ここからトマスは「疑い深いトマス」と呼ばれるようになりました。いったい信じるとはどういうことでしょう。信仰と見ることとの関係はどのようなものなのでしょう。それらは関係があるのか無関係なのか。そんなトマスに向かって、再び現れたイエスがご自分の傷跡をお見せになりました。そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたのでした。するとトマス、彼はその傷を見たり触れたりしなければ決して信じないと言っていたにもかかわらず、どうもそれはしなかったようです。そして「わたしの主よ、わたしの神よ」と信仰告白をしたのでした(28節)。

後にペトロは自らの手紙でこう述べています。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(一ペトロ1.8~9)。信仰は見たり聞いたり、触れたりするところから生れるものではなく、神の言葉を自らの心の内に深く刻み込む、そうした信頼の業であり、きわめて人格的な出来事です。そしてそれは人間、自分の力や努力によって得られものではなく、神の招き、神の救いによって与えられるものなのです。イエスとトマスの遣り取りにおける結論、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」は、そのことを示しています。それは今日のわたしたちにもあてはまることであり、これから生まれる新たな信仰者についても言えることでしょう。目には見えない聖霊がわたしたちの心を覆うとき、復活のイエス・キリストがそのみ言葉と共にわたしたちに臨み、支え、導き、癒し、立ち上がらせ、その新たな命によって勇気を与えてくれるのです。今も、そしていつも共に。