ヨハネ10.7~18 (2018.4.15)

先週は敬愛する酒井敏夫さんの葬儀を執り行いました。その礼拝で取り上げた聖書は詩編23でした。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」で始まるこの詩は、世界中で最も親しまれてきた、そして現在も親しまれている聖書ではないかと思います。数年前イギリスを旅行したとき、電車から多くの羊が草を食んでいる光景を目にしました。そのようにイエスの生きたパレスチナや、さらに西のヨーロッパでは、羊や山羊などの動物との共存は当たり前のことでした。ですから救い主と人間の関係を、このように羊飼いと羊との関係になぞらえることは自然なことでした。

今日の聖書の箇所もまさにその羊飼いと羊との関係について述べたものです。イエスがご自身のことを「わたしは良い羊飼いである」と言っておられます(11, 14節)。「わたしは羊飼いである」でも十分と思えるのに(詩編23)、なぜ「良い羊飼い」と言われたのでしょうか。それは偽りの、まがいものの羊飼いが多くいるからです。それをここでは雇い人の羊飼いと呼んでいます。イエスが「良い羊飼い」であるのを示すために、今日の箇所では3点その特徴を述べておられます。

まず一つには、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と語っておられます(11節)。ならば雇い人の羊飼いはどうか。「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。狼は羊を奪い、また追い散らす」と続きます。羊飼いという仕事は、宗教画やアニメなどでは可愛らしく、また清らかに描かれていますが、実際はそうした美しい牧歌的なものではなく、苛酷でつらい仕事でした。たとえばサムエル記上の17章に羊飼いダビデの話が出ていますが、その羊飼い時代のダビデが次のように語っています。「僕は、父の羊を飼う者です。獅子や熊が出て来て群れの中から羊を奪い取ることがあります。そのときには、追いかけて打ちかかり、その口から羊を取り戻します。向かって来れば、たてがみをつかみ、打ち殺してしまいます」(34節以降)。野獣の口にある血だらけの羊を助けることがあり、そこでは当然羊飼いにも命に及ぶほどの危険が伴います。

普段平穏なときには、良い羊飼いも雇い人の羊飼いも何ら変わりありません。問題は何かが起こったときです。雇い人は「狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」。結局は自分の命を守るために、羊の命を見捨てるということです。旧約続編の中にこんな言葉があります。「幸福なときには、真の友を見分けられない。不幸なときには、だれが敵かはっきりする」(シラ書12.8)。良い羊飼いは、羊の危機のとき、羊の命を第一とします。そして自分の命を捨てます。なぜなら彼は羊のことを心にかけているからです(13節)。「心にかけている」。これはメレイ(ギリシア語)という言葉で、多くの英語聖書ではケアと訳されます。ケアとは通常「ケアマネージャー」とか「ケアハウス」といったように、高齢者を対象とした事業に多く用いられますが、決して高齢者だけのための言葉ではありません。同じ言葉が一ペトロの手紙に出てきます。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです」(5.7)。神はわたしたちの全生涯をケア、すなわち心にかけてくださっています。幸福なときも不幸なときも。だから思い煩いは、何もかも神にお任せすることができるのです。

イエスが良い羊飼いである二つめの理由は、羊飼いと羊が相互に知っているからです。それを14節以降でこう述べています。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」。聖書で「知る」という言葉が使われるとき、それは一般社会で用いられる意味ではありません。一般では、たとえば受験に備えてできるだけ多くのことを知るというように、頭だけのこととして捉えがちです。それに対して聖書では、双方が全人格的な相互関係の中で知るということなのです。そこには深い信頼関係があり、愛に根ざしたものです。それが羊飼いと羊の関係、すなわちわたしたちとイエスの関係であり、さらにはイエスと父なる神の関係と同じだというのです。

この知るということに関しては、別の言い方をすれば「呼ぶ」という言葉とも関係しています。今日の聖書からは外れますが、しかし深く関係している箇所で1節から6節があります。その中の3節でこう述べられています。「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」。聖書で「名を呼ぶ」というのは、召す、選ぶということです。それは神の一方的な恵みの業であり、わたしたちは名を呼ばれた者なのです。羊飼いは羊を十把一絡げではなく、一人ひとりの名を呼んで、ご自身のもとに招かれます。良い羊飼いとはそういう者なのです。

最後の三つ目は、現在の羊だけでなく、もっと多くの羊をも心に留めることができるからです。16節でこう述べておられます。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない」。「この囲いに入っていない羊」とは何を意味するのでしょうか。もう幾度もお話ししていて恐縮ですが、教会の読書会で読んでいる深井智朗牧師の「伝道」という書物についての話です。あと1、2回で読み終わると思いますが、その中にある「教会外のキリスト教」という箇所ではいろいろ考えさせられました。もともとドイツで使われていた言葉だそうで、洗礼を受けても教会の礼拝に出席しない人々を指しています。日本では状況は異なり、「教会外のキリスト教」とはキリスト教のことを知らない人々が圧倒的です。それでもキリスト教の教えには心引かれ、聖書も持っている人々は多くいます。ただそうした信仰には憧れても、具体的に教会の礼拝、その組織に入ることには躊躇する人々が多いのではないでしょうか。いわゆる宗教嫌いなのではなく、教会という組織を避けているのです。そこにはさまざまな誤解もあるでしょうが、日本における課題は、そうした人々との出会いをどのように築き上げていくかにかかっているともいえます。

この囲いに入っていない人々、そればかりではりません。日本の私立学校の60%ほどは、キリスト教関係であると、ある研修会で聞いたことがあります。幼稚園から大学まで、毎日礼拝がささげられ、キリスト教概論が講じられています。それだけではなくキリスト教精神に基づく病院、諸施設もあります。街にはヨーロッパのゴシック様式の教会があります。そこではキリスト教の結婚式があげられています。それにわたしたちの家族もいます。先週の酒井さんの葬儀でも思ったことですが、一人の信徒の周辺には大変多くの家族、親族がいるものです。信仰の空洞化という問題はありますが、このようにわたしたちの周りには、決してキリスト教からはるか遠く離れているわけではない人々がいるのです。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」。それはこのような人々も考えられるのでないでしょうか。

主イエスは良き羊飼いとして、羊のために命を捨てられました。それによってわたしたちがまことの命を得るためです。この十字架の愛の深さ、広さによって教会は建てられています。今ある人々との主にある交わり、そして囲いの外にいる人々との関わり、それが「わたしは良き羊飼である」と言われた主イエスにより指し示されているのではないでしょうか。