ヨハネ15.1~11 (2018.4.29)   

今日の聖書で語られているぶどうと言えば、このあたりでは何と言っても山梨が産地だろうと思います。全国的に見れば西日本も盛んで、岡山県やわたしが以前いた広島でも、けっこうぶどうなどの果樹園がありました。中でもピオーネという品種が有名でした。ただこれは高級品なので普段なかなか食卓に出ることはなく、伝道集会など他から講師(客)を招いたときなどに食べるくらいだったように記憶しています。現在、そのぶどう農園は秋の収穫に備えて忙しいことと思います。

イエスはこの朝、そのぶどうの話をされました。しかもそのものずばり、「わたしはまことのぶどうの木である」と言われました。そして「わたしの父は農夫である」。さらに5節「あなたがたはその枝である」と、わたしたちの関係を述べておられます。その「わたしはまことのぶどうの木である」と言われたイエス、ここで注目したいことは、まず「ぶどうの木」の前に「わたしは…である」という言い方です。「わたしは何々である」。これは自らの自己紹介、さらに進んで宣言、啓示という内容を含んでいますが、それだけでなく唯一絶対的な存在であることも示しています。他のものでもなく、このわたしだけがそれであるといった意味です。

それは次のような出来事を通しても知らされます。イエスがゲツセマネで逮捕されたときのことです。多くの兵隊たちがやって来ました。彼らはナザレのイエスを捜しに来たと告げたとき、イエスが「わたしである」と答えられました。それを聞いたとき、「彼らは後ずさりして、地に倒れた」と書かれています(ヨハネ18.6)。この「わたしである」をギリシア語で「エゴー エイミ」と言います。それは旧約時代の唯一絶対的な神を言い表す言い方で、それが今イエスにおいても同様であることを表しているのでした。兵隊たちが地に倒れたのは、そのように語る神を前にしての人間の姿ともいえます。「わたしである」、それは「わたしはまことのぶどうの木である」の表現と共通したものであり、終末的勝利の意味を込めて、イエスこそ他の何ものとも比較できない絶対的な方であることを言い表したものなのです。

ぶどうが豊かに実るには、当たり前のことですが、それを手入れする農夫、そしてぶどうの木そのものがしっかりしていなくてはなりません。それを今日の重要な言葉である4節ではこう語っています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」。ぶどうの枝は自分自身では実を結ぶことができません。当然のことです。逆から言うならば、木につながっていれば、実を結ぶことができるということでもあります。それが次の5節で語られています。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。従ってここには肯定的な面と否定的な面の2点が語られていることになります。一つはぶどうは木につながっている限りにおいて豊かに実を結ぶことができる。もう一つは、離れては枯れてしまうように自分からは何もできないということです。これがわたしたちの最も本質的な姿とも重ねられているのです。

イエスはそのようにつながっていることの大切さを語っておられます。それはその言葉の多さからも分かります。たとえば4節、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなかれば、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」。ここだけでもつがなるという言葉の多さに気づきます。それだけではありません。今日の箇所の終わりの部分には、ぶどうではなく、「わたしの愛にとどまりなさい」と展開されています(9,10節)。この「とどまる」という言葉も「つながる」と同じ原語です。日本語では訳し分けられていますが、他の多くの聖書がしているように「とどまる」か「つながる」という言葉で統一したほうが、ヨハネが強調したい意図が伝わるのではないかと思います。

イエスがわたしにとどまる(つながる)ようにと言われました。ぶどうの枝が木につながる(とどまる)ことの大切さは分かります。それなら、わたしたちがイエスにつながる(とどまる)とは、どのようなことを言うのでしょうか。キリストの愛にとどまる。その教え、その信仰にとどまるとも言えます。具体的には礼拝につながることによって、そこで示された教え、信仰、隣人愛のうちにとどまるということでもありましょう。「とどまる」を反対から言うならば離れないということでもあります。ぶどうの枝が木から離れて自分で実を結ぶことができないように、わたしたちもキリストから離れては何もできません。放蕩息子の話を思い起こします(ルカ15章)。彼は父から離れて遠くへ旅に出ました。その自分探しの旅にこそ自由があり、まことの自分を見出せると考えたからでした。ところがそこからは何も生まれませんでした。むしろ挫折、破れ、孤独の中で、自分を見出すどころかかえって自分を見失うだけでした。人間の罪による生来の気まぐれや移り気からはまともなものが生まれる可能性はありません。まさに「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」。

しかし「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。ぶどうが実を結ぶことはよく分かります。あのおいしい果実となるからです。それなら信仰者にとっての実とは何でしょうか。実を結ぶとはどのような実のことを言うのでしょうか。それは目に見えるもの、目には見えないものさまざまでしょう。16節以降でイエスがこう述べられました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたは出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」。使徒パウロも言いました。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(ガラテヤ5.22)。

わたしたちを支えるのは自分自身ではありません。ぶどうの枝が木につながることによって初めてぶどうの実を結ぶように、キリストという土台、キリストという幹につながることによって自分自身となることができるのです。一人ひとりには進路の問題、家庭の心配、健康のこと、わたしたちを悩ますものは日々途絶えることはありませんが、けれども神から離れて自らひとりになってしまうのではなく、いつもわたしたちを支えてくださる主イエス・キリストというまことの幹に連なりながら歩んでゆきたいと思います。