ヨハネ16.16~24 (2018.5.6)

教会暦では今日が復活節第6主日、あともう1週経れば次には聖霊降臨節を迎えます。この間に昇天日があります。今週の木曜日です。あまり目立つことはなく、わたしも取り上げて語ることはあまりありませんが、使徒信条には「天に昇り」と1項設けられているほど重い内容を持っています。そのキリストの昇天に関する讃美歌に158番があります。ご存じベートーベンの「交響曲第九番」に教会用の歌詞をつけた讃美歌です。この「第九」の合唱は特に日本で盛んなのはよく知られています。実はわたしも三次教会時代3年連続してこの合唱に参加しました。これはシラーの詩「喜びの歌」に基づくもので、そこには友を得る喜びや主なる神の創造の御業を喜ぶような言葉が力強く、また情熱をもって記されています。

喜び、それは今日の聖書の中心となる言葉で、「第九」を思い起こしたのはそのためです。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(20節)。「ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(22節)。そして最後、「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」。

今日の箇所は、いわゆるイエスの告別説教の一部にあたります。この後、イエスはユダの裏切りに遭い、逮捕、そして十字架の道へと進むことになります。そうした意味では弟子たちとの別れが間近に迫っていたわけですが、しかしそれで終わりになってしまうのではありませんでした。十字架の死が行き止まりではなく、その後に死からの甦りが暗示されているからです。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16節)。この冒頭の言葉は、そうしたイエスの受難を背景として、またその後に起きるイエスの復活が示された言葉です。けれども十字架の死という受難と復活を背景としていますが、この言葉はまた、さらに先の聖霊の賜物が与えられるという約束をも指し示したものでもあります。しかし「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」とのイエスの言葉。十字架の死からの甦りでさえ信じることがむずかしいのに、さらにその後の聖霊降臨を理解するのは弟子たちにとってほとんど不可能なことでした。

だから弟子たちは言うのでした。「そこで、弟子たちのある者は互いに行った。『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう」。「また、言った。『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない」。確かにここでイエスが言われていることは、弟子たちだけではなく、わたしたちを含めた多くの人々にとっても理解することはむずかしいと思います。「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」。この見なくなるとか、再び見るようになるとはどういうことなのだろうか。

そこでイエスは言われました。「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」(20節)。イエスを十字架につけよと叫ぶ人々、イエスは律法をないがしろにしていると非難する律法学者やファリサイ派の人々。そうした敵意はイエスだけでなく、またイエスの弟子たち、いわゆるキリスト者にも向けられることになりました。弟子たちが受けようとしているそうした苦難を思い、イエスはこんなことを言われました。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである」(ヨハネ15.18-19)。これがこの世に生きる信仰者の一面かもしれません。「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ」という一面です。

昨日の新聞では、長崎・熊本の潜伏キリシタン関連のものが世界遺産に登録されるようになったと報じていました。江戸時代200年以上もの間ひそかに信仰を守り続けてきた人々の苦難の歴史です。江戸時代以前もそうですが、この信仰者の群れはその信仰ゆえ大変な苦難を強いられてきました。16世紀半ばのザビエルのキリスト教伝来から端を発していますが、これを世界史的に見るならば、そのときヨーロッパでは宗教改革のさなかでありました。その宗教改革は単に信仰・学問上の論戦を展開しただけにとどまらず、武力によるすさまじいばかりの血を流しました。ヨーロッパの信仰者たちも、迫害、被迫害の間で多くの苦難を経験していたのです。

やがて自分たちの前から立ち去ろうとしているイエスを前に、弟子たちの不安や寂しさはいかほどであったかを想像します。それだけではなく、次々に自分たちにも襲ってくる困難を前に、悲嘆に暮れることはいっぱいあったことでしょう。それは何も弟子たちだけではありません。現在のわたしたちの毎日の生活にも、そうした悲嘆に暮れるようなことはいろいろあるのではないでしょうか。これからどのようにして生きていったらよいのだろうか。日々の心配事、思い煩いにはきりがありません。それでもイエスは言われました。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」。悲嘆に暮れるようなこと、その悲しみは必ず終わるというだけではなく、その悲しみさえ喜びに変わると言われたのでした。それを子どもの生まれるときの母親の苦しみと、生まれたあとの喜びに似ていると語っておられます。「一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」。

そしてさらに次のように言われました。「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」。それはまさにこれから弟子たちに、そしてわたしたちに与えられようとしている聖霊のことであり、その聖霊こそがそれまで共におられたイエスの新たなわたしたちへの関わりであることを示されたのでした。聖霊はわたしたちと共に、わたしたちの中に、そしてわたしたちの上にいつも注がれていくのです。その聖霊はすべての憂いや悲嘆の雲を吹き払い、喜びに変える力を持っています。だからその聖霊(弁護者、助け主)によって与えられる喜びを、もはや奪い去る者はこの世にいません。「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」。わたしたちはいつもニコニコしているわけではありません。けれどもいつも喜びで満たされている者ではあります。そしてその喜びは誰も、また何によっても奪い去ることができないのです。なぜならその喜びは聖霊と共にあるからであり、イエスご自身の喜びでもあるからです。まさに神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです(ローマ14.17)。