ヨハネ17.1~19 (2018.5.13 )
わたしたち野方町教会は1937年(昭和12年)5月8日を教会創立日としています。従って今年は創立81年となりました。毎年教会創立記念礼拝を5月第2主日と定め、今日その記念礼拝を迎えています。昨年は特に教会創立80周年の年という節目でしたから、記念誌刊行や記念集会等さまざまな事業を行ってきました。それは過日開かれた教会総会の資料の中の、宣教と会計報告等に記されている通りです。皆さんもそうだったでしょうが、わたし自身も昨年は大変忙しく、また精神的にも緊張を強いられた1年でした。そして81年目、再び通常の教会の歩みへと戻り、落ち着いた環境の下で、しかし時代を見据えながら新たな宣教の課題に取り組んでいこうとしています。
わたしはこれまで3つの教会に仕えてきました。最初は広島の三次教会で、4年前の2014年に創立100周年を迎えました。わたしどもはそこに招かれ、説教をし、また100周年記念誌も頂戴しました。次の山口・下松教会は今年2018年が100周年の年にあたり、記念誌のための原稿もすでに提出してあります。2か月後の7月末が記念礼拝で、そこにも招かれています。そして現在の野方町教会が昨年80周年を迎え、ここでも記念誌の刊行等の諸事業を行いました。このようにいずれの教会とも今に至るまで関係を持ち、それぞれの記念集会に出席でき、また記念誌に原稿を寄せられることは感謝でした。全体でわたしは35年ほどの牧会ですが、それを見てみますと、確かに往年の先輩諸兄姉が天に召されるなどして人々の入れ替わりはありますが、教会そのものとしてはそれほど変わっていないことに気づきます。それは教会の基本的なところ、すなわち礼拝、宣教、信仰告白、聖礼典等が変わることなく続けられているからです。そうしますと野方町教会のこれから20年後の、長くもあり短くもある創立100周年を考えるとき、同じようなことが言えるのではないかと思います。
今日は復活節最後の第7主日で、次週には聖霊降臨日(ペンテコステ)を迎えます。主イエスの復活後の50日間の歩みがまもなく終わろうとしているところです。しかしそうした弟子たちの別れは、また新たな聖霊による交わりの始まりともなります。そのような別れと新しい希望のつなぎが、今日の箇所ともなります。それはここイエスの祈りにおいて示されています。イエスは冒頭、天を仰いで言われました。「父よ、時が来ました」。何の時でしょうか。それは十字架の時であり、復活の時でもあります。また弟子たちと別れ、天に上げられる時でもありましょう。このように言っておられるからです。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります」(11,13節)。
弟子たちとの別れは、当然彼らに動揺と不安を与えました。自分たちだけで立っていかなくてはならないからです。けれども弟子たちの前からイエスは立ち去っていきますが、そのつながりがなくなるということではありませんでした。なくなるどころか、以前と同様、さらには以前に増して強いつながりが聖霊によって生まれることとなるからです。ここでイエスは弟子たち(信仰者)との豊かな関係を次のように語っておられます。一つには「あなたからゆだねられた人」であるということです(2節)。あなた、すなわち神からイエスにゆだねられた人が信仰者だというのです。またこうも言っておられます。「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」(6節)。これもわたしたちです。信仰者とは神からイエスにゆだねられた人々であり、世から選び出してイエスに与えられた人々なのです。だからイエスは良い羊飼いとして、ご自身の命のようにわたしたちを愛し、見守っていてくださっています。その関係はいつまでも変わることがありません。わたしたち人間は不安定で一貫性に欠けますが、神の選びとゆだねられた関係が変わることはありません。
イエスは「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります」と言われました。それならば弟子たちが残る世とはどのような世なのでしょうか。その世とわたしたちはどのような関係にあるのでしょうか。イエスはこう祈っておられます。「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです」(14節)。これが信仰者と世との関係です。「世に属していない」とはどういうことでしょう。わたしたちは税金を納めていますし、さまざまな市民としての義務や権利において世につながっています。聖書で世と言う場合、それは別の面を指しています。「世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます」(一ヨハネ2.15-7)。「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していない」とは、このような世のことです。それは現実の世界としての世ということではなく、その世の内容、世の持つ一面を指したものです。
それでもイエスはわたしたちがそうした世に背を向ける、離れることを願っておられるのではありませんでした。次の15節でこう祈られました。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」。どのようにして彼らを守るのか。真理によってです。「あなたの御言葉は真理です」。聖書の御言葉、それはイエス・キリストご自身を指し示したものですが、その真理の御言葉によって、悩みの多いこの世の荒波を信仰者は歩んでいくのです。教会は、そしてそこに連なるわたしたちは世から離れて、世に背を向けて生きていくのではありません。そうではなくこの世の中で、世に向かって、しかも世に属さない者として生きていくのです。イエスは最後にこう祈られました。「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(18節)。わたしたちは世へと遣わされた者なのです。野方の町にある教会とはそのような意味を持っています。「世に遣わされた教会」。現在の野方の町には飲み屋が非常に多くなったといいます。またリラクゼーションといった筋肉をほぐすような店も増えています。それらは現代がどのような時代なのかを映し出しているように思います。
わたしたちは世に属さない者として、この世に遣わされた者です。また教会はそのような使命にあずかった共同体として、この野方の町にたてられています。キリストの真理の御言葉によって世から区別されながら、それはまた聖霊によって聖別されながら、この世に福音という光を輝かし、キリストの救いを宣べ伝えていくのです。