ローマ8.1~17 (2018.5.27)

現在話題になっている新しい日本語聖書は、今年の12月に発行されると発表されています。正式な名前は「聖書協会共同訳」というそうです。日本語聖書はおおよそ30年おきに改訳されていまして、戦後だけで言うならば口語訳聖書が1955年、今わたしたちが礼拝で使用している新共同訳聖書が1987年、そして今度の聖書ということになります。ここに来て新しい訳がどのようなものであるか、その輪郭が示されるようになってきました。その一つとして今日の聖書にも出てきます「相続人」(17節)という言葉があります。これに相当する旧約聖書の言葉、ヘブライ語ではハナラーと言いますが、この訳は当初から翻訳者が苦労してきたそうです。基本的な意味は財産とか受け継がれたものというような内容で、文語訳聖書ではこれを「産業」と訳しています。戦後は「嗣業」と訳してきました。英語のinheritanceです(少なくとも1611年発行の英国欽定訳聖書以来現代まで変わらず)。ところがこの嗣業という言葉、60年以上たった今でも日本の教会全体として定着してきたとは言えず、一般の辞書にも取り上げられていません(広辞苑第六版にもなし)。そこで今回の新しい訳ではこの旧約聖書の嗣業という言葉ではなく、今日の聖書にも出てくる相続(人、地)を用いることによって、旧約、新約の訳を統一し、神の救いの一貫性を明らかにしたいということだそうです。

先週は聖霊降臨日としての礼拝を守りました。その霊に導かれた教会の姿は今日も語られています。使徒パウロはわたしたち一人ひとりを肉に導かれる者と霊に導かれる者として語ります。たとえば5節、「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」。霊に属することとは何でしょうか。肉に従って歩むとはどのような歩みなのでしょうか。水曜の聖研(聖書研究会)で旧約聖書を読んでいますが、そこでつくづく感じるのは人間の(神の前における)愚かさ、またいいかげんさです。まさにわたし自身を鏡に映して見ているようでもあります。そうした古代からの時代だけではなく、今日の社会、それは全世界においても日本の中においても同じように言えることですが、さまざまな問題、しかも深刻な問題(分断、分裂等)を抱えています。しかしそれはある意味で当然かもしれません。なぜなら、その社会の構成員であるわたしたち一人ひとりが同じように問題を抱えているからです。霊に導かれる自分、またそのように生きたい自分と、肉に導かれている自分が同じ一人の中に存在しているからです。その関係をパウロは1頁前の7.18-19でこう述べています。「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」。これがわたしたち一人ひとりの姿であり、それによって築かれている社会の現実ではないでしょうか。

それはちょうど二頭立ての馬車を運転する御者のようだとも言えます。先日イギリスのロイヤルファミリーの結婚式がありましたが、あそこでも馬車が運転されていました。あのように訓練された馬だからこそ、そして熟達した御者のもとで二頭ともまっすぐに同じ方向へと進んでいきますが、わたしたちの場合はそうではありません。一頭の馬は霊のもとに歩みたいと思っています。他方もう一頭は肉の導きのもとに歩んでいきます。そのように同じ方向ではなく別々の方向へと進んでいくのであり、しかもやっかいなことに肉のもとに歩もうとする馬の力の方が圧倒的に強く、その二頭の手綱を握るわたしたち自身の力ではとても制御できる状態ではありません。そのようにしてこの馬車は滅びの谷の方へと向かっているのです。それが聖書の示す人間の現実です。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」と語る通りです(6節)。

キリストはそのような弱いわたしたちの救いとなってくださいました。パウロはこう述べています。「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(3節)。何と奥深い、かつそれゆえ恵み深い言葉ではないでしょうか。わたしたちの中にいる二頭の馬、その手綱を引くのもわたしたちなのですが、しかしその手綱さばきは制御不能の状態に陥っています。それゆえキリストが代って罪を取り除き、わたしたちを神の前にふさわしい状態へと整えてくださいました。パウロは聖書の別の箇所で次のように語っています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(二コリント5.21)。今もわたしたちはこの二頭立ての馬車の御者であることに変わりありませんが、すでに以前の状態の馬車ではなく、キリストが共に、また代わって手綱を引き、聖霊がいつも導いてくださる、そのような馬車へと変えられています。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(11)

このようにわたしたちはキリストの救いにより、さらには聖霊の日々の導きにより、もはや肉に引っ張られる者ではなく、霊の導きのもとに入れられています。その恵みを聖書では二つの点で言い表しています。一つは神の子とされたことです。神の子とは本来はイエスだけに与えられた称号です。それが今イエス・キリストを通してわたしたちもそのように呼ばれ、そのような恵みのもとにおかれました。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(14節)。以前はそうではありませんでした。肉の支配のもとにあった頃は、奴隷の霊につながれていました。それゆえそこにあったのは恐れ、不安、不自由でした。神の子はその反対です。もはや恐れることも不安もありません。自由な者として生きることが許されています。「アッバ、父よ」と呼ぶことのできる全幅の信頼の関係へと招かれているからです。これが恵みの一点です。

もう一点が今日の冒頭でお話しした相続人になったということです。旧約聖書で使われてきた嗣業という言葉は、具体的には神によって与えられる土地を意味してきました。またそれだけではなく、主なる神がわたしたちの嗣業とか、ユダヤの民が神の嗣業というようにも言われています。新約においてはもはやそうした約束の土地という意味合いではなく、キリストによる救い、その恵みを受け継ぐというように変わってきました。「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です」(17節)。これが旧約聖書における嗣業の新約的な展開です。ペンテコステの霊を受けた教会、そしてそこに連なるわたしたちはもはや肉の支配ではなく、霊の導きのもとにあります。神の子として、また神の相続人、しかもキリストと共同の相続人として恵みの中に招き入れられています。それが現在のわたしたちの姿なのです。