使徒言行録4.13~31 (2018.6.3)

使徒言行録は全部で28章から成っていますが、それはペンテコステ(聖霊降臨)によってどのように教会が生まれたか、それと共に弟子たちがどのように強められていったか、さらにはどのようにして新しく信じる人々が起こされていったかが書き記されています。これを著したルカは、決して初代教会の成功物語として書いているわけではありません。もちろんそこには教会が世界に広がっていく様子が報告されています。それでもそれと同じくらい人々の拒絶があり、また不信仰もありました。それにもかかわらず、神の御言葉の前進を妨げるものは存在しないという事実が全体を覆っています。

今日の箇所は3章から始まる出来事を受けたものです。それはペトロとヨハネがエルサレムの神殿へ祈りに行ったことから始まりました。境内には生まれながら足の不自由な一人の男が施しを乞うていました。その男を見てペトロは言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3.6)。すると男は立ち上がり、歩き始めました。この癒しの出来事を見た人々は大いに驚きました。そこでペトロが人々に向かって語りかけました。それが3.11から終わりまでの説教です。それは旧約の預言を経てキリストの救いがあらわれ、その十字架の死と復活によって人々に新しい命が与えられるようになった。だから自らの罪を悔い改めて、神に立ち帰るようにと人々に勧めるのでした。

それを受けて今日の4章に入ります。彼らの説教を聞いていた祭司たち、神殿守衛長など神殿当局の者たちが、二人を捕えて翌日まで牢に入れました。その日は既に日暮れだったからでした。この時点で信じた人々が男だけで五千人ほどであったと書かれています(4節)。翌日、大祭司など権力者が集まり、二人を前に立たせました。「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問しました(7節)。当時の社会の支配者、権力者の前での弁明、ペトロとヨハネはいっそう緊張を強いられたことでしょう。それでも聖霊に満たされたペトロは、はっきりと告白しました。キリスト以外、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(12節)。この言葉を信じて生きる。しかもこの言葉を人々にもはっきり表明する。それはペトロ自身から生まれた意志とか自信というより、上から与えられる告白、すなわちこれこそ聖霊の働きではないでしょうか。

今日の箇所は、それを聞いた議員など支配者の驚きの言葉から始まります。彼らはペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚きました。ここには聖霊に満たされた者の特徴が二点、彼らの驚きから示されています。一つは大胆な態度です。以前の彼はどうだったでしょうか。イエスの逮捕後、ペトロはこそこそと大祭司の中庭までついていきました。そしてあなたはだれかと問われたときには、イエスとの関係を否定しました。そんなペトロが今、同じ人々を前に大胆に語るのでした。この大胆さは決して向う見ずな態度、蛮勇といったものではありません。自分がどのような状況に置かれているのかを知った上での確固たる態度でしょう。宗教改革者のカルヴァンがよく「陶酔のない熱心さ」という言葉を使いますが、こうした緊張する場面でしっかりとした説教ができるところにそんな言葉を思い起こします。もう一点は二人が無学な普通の人であるのを知って驚いたことです。普通の人(これはだれでも普通の人ですが)、もう少し加えますと無知とか初心者というような意味です(一コリント14.16)。ファリサイ派の人々や律法学者に比べれば、確かに彼らには学問がありませんが、しかし神の業を証しするのにそうしたことは何ら妨げにはなりませんでした。なぜならそれは聖霊の働きによるものであり、聖霊が信仰者を導いて証しをさせているからです。

そこで指導者たちは相談をし、今後イエスの名によって話したり、教えたりしないよう命令をしました。するとペトロとヨハネが答えます。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください」(19節)。ここには大きく二つの支配が背景となっています。一つはこの世の支配であり、もう一つは神の国による支配です。この世に生きるということは、その法律を守り、指導者に従うことが求められます。他方でわたしたちはキリストに従って生きる者でもあります。もしその二つの方向が違った場合、どちらを優先すべきか。聖書には、たとえばダニエル、彼は王の命令を拒みました。しかしそれは理不尽な命令であったゆえ、彼の反抗は罪とはなりませんでした(ダニエル6章)。その逆もあります。ユダヤの民は不敬虔な王の命令に余りに従順すぎたために断罪されたこともありました(ホセア5.13)。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の目に正しいかどうか」。重要なことは「神の目に正しいかどうか」であり、それは人の目にどう映るかを超えるものなのです。

これに関係していることですが、長老(役員)や牧師の資格についての規則です。わたしたちの教会でも昨年度それについて議論してきました。教団の教規では役員(長老)の資格として20歳未満(当教会では25歳)と下限を設けているだけですが、当教会ではもう一つ70歳と上限を設けてきました。今はそれについての話ではなく、当教会規則にはないのですが、教団の教規にはもう二つ条文が記されていることについてです。その二つとは破産者で復権を得ない者。もう一つ、これが今の話と関係しているのですが、「信仰以外の理由で、禁錮以上の刑に処せられ、刑の執行を終わり、またその執行を受けないこととなった後、2年以上を経ない者」とあります。これは役員の場合で、牧師は2年以上経っても、禁固刑を受けた者はなれません。ただここで言いたいことは、信仰はその限りではないということです。ペトロもこの後に登場するパウロも幾度か牢に囚われることになります。けれどもそれはすべて神に従った信仰による拘束です。彼らに牧師、役員になる資格がなくなるということではありません。

ペトロとヨハネは釈放されてから、仲間のところへ行き、事の次第を報告しました。そして一同で共に祈りました。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」。そのように彼らが祈り終ると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語りだしました。2章に続き、第二のペンテコステと呼ばれる出来事です。わたしたちには人間の目では困難に見えること、いや不可能とさえ思えることが多くあります。それにもかかわらず神はそうした困難な扉を必ず開いてくださいます。それを使徒言行録は証ししているのではないでしょうか。祈ること、共に心をあわせて祈るとき、聖霊はわたしたちを覆い、思いもかけない新たな力を与えてくださるのです。