ガラテヤの信徒への手紙5.2~12 (2018.7.1)     

週報にも毎週案内していますように、わたしたちの教会では毎週水曜日に旧約聖書を1章ずつ読んでいます。それを読んでいて思うことの一つは、繰返しの表現が非常に多く見られ、現代人のわたしたちには時に退屈さを感じるということです。読むだけでもわたしたちにはそう感じるのですが、それを書いた人々どうだったのでしょうか。読むよりも遥かに困難な働きである聖書を書いた古代の信仰者たちはどのように感じていたのでしょう。神の霊に満たされて、強い使命感と学識をもって書き記していったことと思います。今のようにせっかちに答えを求めようとはせず、またすぐに答えが与えられるとも期待せず、彼らは長い神の救いの歴史を綴っていったのでした。退屈などは問題外だったことでしょう。それが新約聖書の約3倍の量となる旧約聖書です。

イエス・キリストの福音、それを記した新約聖書は、この旧約聖書を前提としています。旧約聖書で語られていること、たとえば申命記の一節から言うならば次のようになります。「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」(6.6-9)。アブラハムとの契約、そしてモーセを通して与えられた律法の言葉は、このようにイスラエルの人々の生活の絶対的な規範となっていきました。旧約聖書に記された律法を守る限りにおいてあなたがたには祝福があるというものです。ところがそれらを守ることができなかったのも、旧約聖書が示す人々の歴史でした。

旧約聖書から言われてきた救い、また義という言葉は、新約聖書にも引き継がれていきます。ただ重要なのは、その内容が違うということです。救いとは何か、義とされるということはどのようにして可能なのか。今日の箇所でもパウロは語っていますが、それはキリストを信じることにおいてのみ可能なのだと述べています。パウロ自身もかつては律法を宣べ伝えていたのですが、そのような旧約時代の絶対的な法(規範)が背景にあったからこそ、信仰による義、律法の行いによるのではなくキリストを信じることによってのみ救われるという豊かな主張が可能でした。従って旧約聖書を知ればそれだけ多く、新約聖書における信仰によってのみ救われるということが、いかに大きな恵みであるか、それがまさに福音となるかが分かるのではないでしょうか。

ここガラテヤの教会にはパウロが語る福音とは別に、旧約の律法を重視するユダヤ人指導者がいて影響をもたらしていました。彼らはキリストを信じることと並行して、また信じる前に律法の重要な一つ割礼を受けるべきと主張していたのです。言い換えれば、異邦人の教会であるガラテヤの人々に一度ユダヤ人になってから、それからキリスト者になるというような主張をしていたのです。それに対してパウロは反対をとなえました。「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(2節)。「律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(4節)。このようにパウロは旧約の律法、その中の割礼と新約のキリストを対立させました。旧約聖書の教えとキリストの教えはある意味では継続し、また完成という関係でつながっています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とのイエスの言葉がそれを示しています(マタイ5.17)。しかし同時にまた、双方は対立もしています。パウロは6節でこう語ります。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無(律法)は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。このキリストにある愛によって働く信仰こそが重要なのであり、それこそが旧約の律法と対立をし、またそれを超えた新しい信仰のあり方としてあらわされたのでした。

パウロは割礼を代表とした律法に対して、それもあってはよいのではないかといった考えを批判しました。「あれもよい、これもよい」ではなく、「あれかこれか」という面が信仰には必要だというのです。「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」との諺は、ここでは否定的に用いられています。そうしたわずかなことのように見えるかもしれないが、そうしたことを自分(たち)にゆるしていたら、やがてその影響は悪い方に向かって大きくなってしまう、そして教会形成は崩れてしまうというものです。

そこで最後に語るのが十字架のつまずきでした。「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう」(11節)。「十字架のつまずき」、このつまずきはギリシャ語で「スカンダロン」、「スキャンダル」という英語になっていく言葉です。それならば「十字架のつまずき」とは何でしょう。ここでパウロは十字架にはつまずきが必要である、なくてはならないという意味合いで述べています。もし十字架からつまずきを取り除いてしまうなら、それこそ福音が福音でなくなってしまうからです。

ユダヤ人にとっては割礼をはじめとした律法が自分たちの規範であり、それがすべてでした。それに従うとき、またそれを守ることによって人は義とされるというものでした。けれどもキリストの福音は信じることによってのみ救われるとパウロは語ります。従ってその救いの前では、もはや律法による行いは効力を持たなくなりました。まさにそれゆえにユダヤ人にとっては、キリストの十字架は自分たちが目指す道のつまずきとなっていくのでした。そのつまずきを解消して「あれもこれも」のような安易な道を取るのではなく、十字架のつまずきをつまずきのまま伝えることが重要でした。翻ってわたしたち日本人にはユダヤ人のように律法という堅固な生活の規範がありません。なんでもあり、あるいはなにもないという無関心な精神風土のように見えるからです。そうした中で「十字架のつまずき」は何になるのでしょうか。そのつまずきは何に当たるのでしょうか。やはり最終的には自分自身であるかもしれません。自分の肉なるプライド、そこからの自分のわざによって生きていこうとする生来のものはあると思います。しかしそれであったとしても、自分のしたいと思うことがいつもできるというわけではありません。むしろできないことのほうが多いのが、現実の自分ではないかと思います(17節)。そうした中でわたしたちのさまざまな重荷を背負ってくださり、すべての罪を十字架において赦してくださったキリストに集中することが重要です。行いよる義ではなく、まさに正反対の、ただ信仰によって救われることにより人は自由になり、また新しく創造された者となることができるのです。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう」(2-4節)。この主イエス・キリストを信じ、主に自らを委ねつつ、隣り人と共に生きていこうとするところに深い慰めと希望があるのではないでしょうか。