二コリントの信徒への手紙6.1~10 (2018.7.15 )

もう1週間以上にもなる西日本を中心とした豪雨災害、今日も酷暑の中、亡くなられた方の葬儀が行われ、行方不明者の捜索や復旧作業がなされます。わたしたちの教会も募金活動を始めますが、改めてここに祈るものです。それにしても200名を超す方々が亡くなられたことは、今だに信じられない思いです。世界G7の一つに属する先進国で、これだけ多くの人々が一度に亡くなることに驚きを禁じえません。先週、わたしたちの教会でも業者による防災設備点検を行いました。それだけで十分というわけではありませんが、わが国では防災に関していろいろ事細かに法整備をなしているだけに、これほど多くの命が災害で亡くなるといことはどういうことなのだろうかという思いです。そうした疑問を抱きながらも、心よりお見舞い申し上げるしだいです。

さて今日の二コリントの信徒への手紙の6章では、信仰者の逆説的な姿が語られています。それはキリストの十字架の死が、実は命の始まりとなったことに基づいたものです。そのために、まずキリストの恵みについてわたしたちに注意を喚起しました。「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」がそれです。わたしたちは神からいただいた恵みを恵みとしてしっかりと受け止めているでしょうか。それを自覚しているでしょうか。それとも無感動に、あるいは当たり前のように受け取ってはいないだろうか。そこで預言者イザヤの言葉を用いながら、より明確な信仰へとわたしたちを導きます。その言葉はこうです。「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」(49.8)。それを受けて使徒パウロは言いました。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。ここで強調されているのは、今ということではないでしょうか。今というこの時、今という今日の一日。それは昨日でも昨年でもない。また明日とかそのうちいつかということでもありません。信仰というのは、今、今日という日なのです。

先週の金曜聖書研究会ではヨハネの黙示録の20章に入り、いよいよ大詰めに近づいてきました。そこで出てきた言葉に千年王国がありました。ミレニアム、これは黙示録の重要な用語です。そこで千年という言葉にはどのような意味があるのか調べてみました。たとえば詩編90、「千年といえども御目には、昨日(きのう)が今日へと移る夜の一時にすぎません」(4節)。また新約聖書二ペトロの手紙では、「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(8節)と語られています。一日を生きるということは、千年を生きることと主にあっては同じであり、今という時を主にあって生きることがいかに大切であるかが述べられているのです。

もちろんその今は、いつもかも人間的に見て恵みの時として受け止められるようなことばかりではありません。病気の時もあれば、失業の時もあり、学業がうまくいかない時もあるでしょう。しかし「恵みの時」とは、わたしたちの目に心地よい、人からもそのように見える時のことだけではありません。信仰生活はそのような表面的なものではなく、そこには深い逆説の真理が隠されているからです。4節でパウロは「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」と語っています。「あらゆる場合」、それはすべてにおいてということです。健康の時だけでなく、病気の時も、人々から認められる時だけでなく、無視されるような時においてもということです。

そこで次のような経験を記します。「大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力」。ここにはパウロ自身の経験、あるいはパウロの主張が述べられています。そうした体験は、使徒言行録の中に幾つか見ることができますし、パウロ自身の手紙の中にも書かれています。官憲に捕らわれての鞭打ち、そして監禁がありました。また神殿の境内で暴動に巻き込まれることもありました。長い宣教旅行に伴う労苦や不眠、飢餓などは、この手紙の11章でさらに詳しく述べられています(23節以降)。ここには全部で18の体験等が記されています。それを大きく分けると、前半の10項目は否定的な事柄で、「大いなる忍耐」から「飢餓」までです。後半の8項目はそれとは反対の肯定的な事柄で、「純真」から「神の力」までです。それらすべてが、恵みなのです。「今や、恵みの時」。その今は、「親切」や「聖霊」に満たされた今もあるでしょう。けれども「行き詰まり」や「不眠」に悩まされる今もあります。恵みの時とは決して快適なことだけをいうのではありません。

それは以下に続く逆説においても同様です。「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときも」。これら双方は反対の状態ですが、どちらも恵みなのであり、決して片方の時だけを意味するのではありません。キリストから導き出された命の意味と重さは、表面的、一面的なものではなく、むしろ相反すると思える状態であっても、主にあってはその意味を交換し、欠乏が豊かさとなることがあり、その逆もあるのです。「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」(マタイ5.3)との主イエスの言葉は、その代表的なものです。

それらをまとめたものが、今日の箇所の最後の部分、8節後半からの言葉です。「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」。ここにも正反対の状態を一組として7つ述べられています。「人を欺いているようでいて、誠実である」。「悲しんでいるようで、常に喜んでいる」といった具合にです。ここで注意したいことは、「人を欺いているようでいて」の中にある「のようで」という言葉です。これは文語訳聖書からの伝統ですが、そのように訳すと、実際はちがうのだがそのように見える、そのようなふりをするという意味合いが出てきてしまいます。しかし実際は双方は並列なのであって、「悲しんでいるようで」ではなく、事実「悲しんでいる」のです。「悲しんでいる者として、常に喜び」、「物乞いのようで」ではなく、「物乞いの者として、多くの人を富ませている」という訳も可能なのです。だからたとえばイギリスの改訂英語聖書では、最初の「人を欺いているようでいて、誠実である」を「真実を語る偽り者」と訳しているのです。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。その今には、その一日にはいろいろな時があることでしょう。不愉快な今があり、不遇な一日を過ごさなくてはならない時もあります。けれども人間的に見てどのような時であっても、それらはすべて恵みの時であり、救いの日なのです。無駄な時、無意味な一日は一つもありません。なぜなら主イエス・キリストにあっては、悲しみの中にさえ、さらには悲しみの中にこそ喜びがあり、無一物の中に豊かな所有があるからです。悪評も好評も、どちらも主にあっては恵みの時なのです。