エフェソの信徒への手紙4.17~32 (2018.8.12)
先週私は高崎に行ってきました。友人の牧師が夫婦で施設に入っていまして、そのお見舞いを兼ねてです。先生はお元気なのですが、奥さんが認知症から寝込むようになったため、教会を辞任し施設の生活となりました。その部屋へ案内してもらいましたが、リビングルームと寝室が1部屋、後はトイレや簡単な台所があるつくりです。だいたいこうした部屋にシングルの人か夫婦が入っています。まだまだ大丈夫と思っていた矢先の病であったため、転居のために十分な準備ができませんでした。そのためそれまで住んでいた牧師館から、施設に荷物を運ぶのは大変だったようです。当然すべてが入るわけではありませんので、多くを捨てなくてはなりません。何を捨てるか、そして何を持っていくか。断捨離ではありませんが、何を捨て、何を残すか、その整理はなかなか大変でそれはだれにもあてはまることです。
持ち物にこれだけの執着があるのですから、わたしたちの内面においてはいっそう捨てることには困難が伴います。聖書ではそれを服を着る、服を脱ぐという言い方で述べています。それが22節以降の言葉です。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」。ここには古い人と新しい人という2人の人が語られています。2人というのは正確ではありません。そうではなく1人の人間の中にある2種類の自己といったほうがよいと思います。そしてあたかも洋服を着たり脱いだりするようなこととして語ります。わたしたちが別の服を着るためには、それまで来ていた服を脱がなくてはなりません。自分は脱ぎたくない、そのまま上に着るというわけにはいきません。ましてそれまで着ていた服がぼろとなり古くなれば、なおさらのことです。それを脱ぎ捨て、新しい服に着替えるのは当然のことです。
それならば脱ぎ捨てるべき古い人とはどのような人でしょうか。それは今お読みしました箇所にある、すなわち「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている」人のことです。またその前の17節以降にも、その古い人の姿が語られています。「彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」とある、そうした人のことです。旧約詩編も次のように語っています。「人の子らは空しいもの。人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い」(62.10)。ここには人間の存在の軽さ、不安定さ、それは息よりも軽いと述べています。人間の本性は罪によって腐敗しているからであり、その知性も自然のままでは神の命から遠く離れたままだからです。これが古くなった服であり、ぼろになったゆえに脱ぎ捨てなくてはならない古い人なのです。
それに対して新しい服とは何でしょう。新たに着るべき新しい人とはどのような人のことでしょう。同じ箇所に続いて語られています。「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」。この新しさへ導く鍵はキリストにあります。イエス・キリストこそ、古い人と新しい人、古い自分と新しい自分とを分ける鍵なのです。人間は生まれたまま、自然のままでは神の御心に沿うことができません。思いも行いも、また知性もすべて罪によって闇に覆われているからです。そうした肉なる自分中心の在り方からわたしたちを解放してくださったのがキリストでした。十字架と復活によって、新しい人間へと造り変えられたからです。聖書は他の箇所でこう述べています。「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6.4)。ここにこそ新しさがあります。新しい人、それはキリストにかかっているのです。だから次のように言うことができるのです。「キリストと結ばれている人はだれでも、新しく創造された者なのです」(二コリント5.17)。ひとりの例外もなくだれでも新しい人、新しい自分として生きることができるのです。キリストに結ばれているかぎりにおいて。
ここに第2の創造が示されています。「新しい創造」、また「神にかたどって造られた新しい人」がそれです。創世記1章には天地創造が語られ、そこで人は神にかたどって造られたと書かれています。第1の創造です。ところがその最初の人アダムは罪を犯したため闇の中をさ迷う人間となり、神の御心に適うことができなくなりました。今キリストによって新しく創造された人間、それは神の似姿の回復であり、しかも前のアダム以上の新しい創造となりました。それがこの「神にかたどって造られた新しい人」のことであり、わたしたちは創世記のアダムを超えた新しい人間として生きることができるようになりました。
当然もはや古い人間ではありませんから、生活の在り方も違ってきます。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」、で始まる25節以降の勧めの言葉がわたしたちを導きます。これらの言葉、たとえば偽り、盗み、むさぼりへの警告を聞くとき、その背景にモーセの十戒があることが分かります。隣人に対してどのように振る舞うべきか、何をすべきか、そして何をしてはならないか。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」。人間の感情は悪に傾きやすいだけに、耳が痛い言葉です。「盗みを働いていた者は、今から盗んではなりません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」。これについてわたしは18世紀半ばに語ったジョン・ウェスレーの説教の一部を思い出しました。それは「金銭の使い方」という説教の中で、三つの規則を語る有名な言葉です。その規則の一つは「できるだけ利益を得よ」。二つめの規則は「できるだけ節約せよ」。そして三つめは「できるだけ与えよ」というものです。「自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」から、そのようなメソジスト教会の創始者の言葉を思い起こします。
最後にまとめてしての言葉が32節です。「互いに親切にし、憐みの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」。わたしたちの周りの兄弟姉妹、隣人が困っているとき、悲しんでいるとき、それを見ていて少しも気にならないというのではなく、あたかも自分自身に起こったことと少しも変わらないように心動かされる。まさに「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」(ローマ12.15)キリストに導かれた姿です。わたしたちは古い人、ぼろとなった古い服をいつまでも着ているのではなく、それを脱ぎ捨てました。そして神にかたどって造られた新しい人として歩んでいます。その古さ新しさは年齢に左右されるものではありません。キリストにあるかどうか、キリストに結ばれているかどうかの一点にかかっているのです。もちろんわたしたちは神にかたどって造られた新しい人、第2の創造のもとに生きるのをゆるされていることは言うまでもありません。