一ヨハネの手紙1.1~10 (2018.12.30) 

アドベントから始まったクリスマス一連の諸集会は、先週月曜日(24日)をもってすべて終えることができました。わたし自身はこの1週間疲れを取りながら、またクリスマスの余韻を楽しみながら、そしていろいろな反省点も考えながら過ごしてきました。イブ讃美礼拝&コンサートから2日後、教会宛に1通のお便りが届きました。女性からのもので、ミッキーマウスの封筒で送られてきましたから若い人だと思います(字体もそんな感じ)。手紙の内容は素晴らしい集会であったこと、自身中高生時代はミッションスクールだったので、その頃に歌った讃美歌を思い出したことなどが綴られていました。それに教会の皆さんがとても温かく迎えてくれたことも書き記されていました。最後にこれからも行ってよいでしょうかとありました。わたしはもちろん来てくださいと書き、かつて養われた信仰の心が今再び甦ろうとしている、そんな神様が備えてくださった機会なのだからぜひその志を育ててほしいといった旨の返信を出しておきました。その他にも強弱は別にして、さまざまなリアクションがあったことと思います。そうした蒔かれて御言葉の種が、神様の導きにより少しずつ成長していってほしいと祈ります。

今日は2018年最後の礼拝、週報のバックナンバーは52と記されています。また教会暦では降誕節第1主日礼拝として迎えています。この朝第一ヨハネはこう述べています。「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち命の言について」。この書き出しはヨハネによる福音書と非常に似ています。著者は同じ人物ではありませんが、福音書から大きな影響を受けた手紙として、一般にはヨハネ文書として一緒にまとめられることが多いようです。その初めからあったもの、わたしたちが聞き、見、手で触れたもの、すなわち命の言とは何を意味しているのでしょうか。さらに手紙は続けます。「この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです」。ここまで来ればお分かりになるのではないでしょうか。その命とは、命の言とは、すなわちイエス・キリストを指し示しています。まさにヨハネ福音書が次のように語るとおりです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった……言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた……いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1.1,14,18)。

これこそがクリスマスの出来事にほかならないと言ってよいと思います。神はいと高き天にいます聖なる方です。他方、人間はその神に背を向け、その神に敵対してめいめい自分勝手なことをしながら生きています。その結果として人と人との争いがあり、人間本性の腐敗・破れをもたらしました。それが罪の中ある人間の現実です。しかし神はそのようなわたしたちにもかかわらず、神の独り子をこの世に与えてくださいました。しかも貧しき肉の姿を取り、わたしたちのために、わたしたちと共に、そしてわたしたちの重荷を十字架で背負うことによって、罪の赦しを与えてくださったのです。それが人の子として地上を歩まれる主イエスであり、クリスマスに実現したのでした。だから次のようにヨハネは語るのです。「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」。「交わり」、それは信仰生活の重要な要素であり、クリスマスに肉となられたキリストとの交わりは、二つの方向へとわたしたちを導きます。一つはそれまで遠い存在であった御父、すなわち神との交わりを可能にしたこと、もう一つは人と人、隣人との交わりへとわたしたちを向かわせました。それら二つの交わりは、キリストとの交わりによって初めて可能になりました。教区内に「学生キリスト教友愛会SCF」があります。そこでのFとはフェローシップの頭文字で、ギリシア語の「交わり(コイノーニア)」の英訳です。教区では友愛と訳していますが、いずれにせよこのような精神を基盤として活動しているのです。

その神が光であるのは、これもまたヨハネ福音書と共通しています。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と語るとおりです(8.12)。手紙でもこう述べています。「神は光であり、神には闇が全くないということです」。その光の中を歩むということは、反対に闇の中を歩まないということは、これまで語ってきた交わりと深く関係しています。それをこのように言っています。「わたしたちが神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」。人間は自分ひとりで生きているとか、生きていけるとかというのは間違いであり、それは誤った方向へ導く傲慢さ以外の何ものでもありません。それは自分本位の虚栄虚飾に覆われた偽りの道です。そうではなくまことの道であり真理であり命であるキリストとの交わりの中に生きること、その主につながっていることが、わたしたちを闇の中ではなく光の中を歩む者として生きるのを可能にするのです。

キリストとの交わりに生きる、それは光の中を歩むことですが、そのことは罪の告白と深く関係しています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」と手紙は語ります。わたしたちはいつも肉なる誘惑や堕落にさらされています。そして実際その罪に陥っています。そのような腐敗や弱さを隠して偽りの中を生きるのではなく、素直にキリストに心を開いて生きることが大切なのではないでしょうか。逆説のように聞こえるかもしれませんが、罪のない生活とは、罪を犯すことがないということではなく、その犯した罪を日々告白していく生活だということです。なぜならそれ以上に大きな赦しがイエス・キリストにはあるからです。そのキリストを信じて自らを委ねて生きることが重要なのです。

今年も後2日で終わろうとしています。国の内外の振り返りは新聞やテレビ等でなされていますが、わたしたち一人ひとりの1年はどうだったでしょうか。思いどおりうまく行ったことの反面、病や家族の死や失敗など思わぬ試練に直面したこともあったことでしょう。自分の醜さや愚かさを味わったこともあれば、反対に主にある喜びの中を歩んだこともあったのではないでしょうか。新しい年、わたしたちはこれまでと同様、またこれまで以上に主の真実と正しさに信頼しながら、いつも自らを主に委ねつつ歩んでいきたいと願います。