イザヤ書40.27~31 (2020.1.5)

 2020年最初の礼拝を今日迎えました。週報のナンバーは1と記しています。これから52回の礼拝を守りますが、これからの長い1年の旅路の最初の礼拝ということになります。最初の礼拝に際し、何よりもふさわしい言葉は「新しさ」ではないかと思います。それは教会だけでなく、日本中で、また世界でも新しい気持ちで歩み始めたことは同じです。新しい年2020年、特に日本では令和2年と、まだ生まれたばかりの元号をもって始まりましたので、その新しさは格別かもしれません。新しいカレンダーやまっさらな日記帳も、新しい気持ちを与えてくれます。教会では1月の聖句(週報記載)に新しいという言葉の入った聖句を選び、表の看板にも出しました。そして今日の礼拝の箇所も新しさを念頭に置いて選びました。そのように新しさとは新年にあたり、もっともふさわしい言葉だと思います。それではその新しさとはどのような新しさなのでしょうか。聖書はどのような意味でその新しさを語っているのでしょうか。

紀元前6世紀のイスラエルは外国の支配を受けて苦しんでいました。当然多くの自由が制限されていました。信仰の自由も同様です。そこから生まれた人々の言葉は、不満や愚痴や信仰への疑問でした。神を信じて歩んでいるのに、なぜ自分たちにこのような苦しいことが起きるのか。どんな悪いことをしたのか。どのような罪を犯したのか。それに対して預言者イザヤが逆に彼らに問い返したのでした。「ヤコブよ、なぜ言うのか イスラエルよ、なぜ断言するのか わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁き(訴え)は神に忘れられた、と」。あなたがたは自分が導かれていない、神に忘れられたのではないかと言っているが、決してそうではないとイザヤは語るのです。ちょうど曇り空のときや雨のときでも、その上にはいつも太陽が照り輝いているように、気持を暗くさせたり落ち込むようなことがあっても、それで神の導きがなくなったわけではないというのです。

そして神がどのような方かをイザヤは語るのでした。「あなたがたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神 地の果てに及ぶすべてのものの造り主」。ここには神はどのような方であるかが、2点示されています。一つは「とこしえにいます神」です。すなわち昨日おられた方は明日もおられ、いつまでも永遠におられる方だということです。2000年前にご自分を現された方は、今も同じように働かれる方でもあるのです。それが「とこしえにいます神」です。もう一点は「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」なる神です。つまりあの地におられる方は、この地にもおられる神だということです。もっと身近な言い方をするならば、教会におられる神は、道を歩いているときにも、入院中のベッドの上に横たわる友の上にも、また一人でホームに入所している信仰者の傍らにもおられる方なのです。

当然そのような全能の神ゆえに、人間的に言うならば「むことなく、疲れること」もありません。むしろ疲れた者を癒し、勢いを失った者に力を与える方なのです。ここでイザヤは疲れたり弱ったりするといった、きわめてわたしたちの日常生活で経験している状態を取り上げるのでした。それは今日のようなストレスの多い社会だけの問題ではなく、いつの世も、このイザヤが活動していたイスラエルの人々とて同じでした。人間はある程度までは苦しいことに耐えることができます。けれどもあまりにもそれが深刻だと、あるいは苦しいことが長く続くと、耐えきれなくなってしまうのではないでしょうか。イスラエルの人々は長きにわたる抑圧の時代が続くことによって、弱り果て、ほとんどの者が倦み疲れていったのです。若者であっても疲れ、勇士であってもつまずき倒れるとある通りです。

昨年の暮れ、わたしは気分転換と健康管理を兼ねて近郊の山へ出かけました。そのとき幾人かの若者が山道を走っているのに出会いました。最近話題になっているトレイルランというスポーツを行う人々です。わたしも現在の歳としては元気な方で、この日もアップダウンの道を5時間ほど歩いたのですが、さすがにそこを走るまでの体力はありません。しかしたとえ体力のある若者であっても、彼らがいつまでも走り続けることができるわけではないでしょう。そこには限界があるからです。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れ」るとは、そうした限界の一端を示しています。

もちろんここでいう疲れとか、弱ってつまずき倒れるのは、単に体力の限界に直面した疲れだけではありません。それは一人の人間全体の状態を言い表しているからです。そこには心の疲れ、内面における疲れもあるでしょう。信仰において弱ることもあるでしょう。当然肉体的な弱さも、そうした全体の疲れに関係しています。そのように疲れとか弱さにもっとも遠い若者であっても、疲れ果てることがあり、弱ることがあり、つまずき倒れることもあるのが現実の人間の姿です。それは今日の社会でも同じですし、それが自然の世界だからです。

それにもかかわらずイザヤは語るのでした。それが全能の神による癒しであり、救いでした。「とこしえにいます神」、「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」なる方は、「疲れた者には力を与え 勢いを失っている者に大いなる力を与えられる」方でもありました。そして次のように言うのです。「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る」。ここに新年にふさわしい新しさがあります。何と素晴らしい希望に満ちた言葉でしょうか。わたしたちは青年時代をピークとして、それまでは上り、それ以降は下り坂に入ります。今日から掲げた1月の聖句が語る通りです。体力、知力、精神力等々、昨日から今日、今年から来年、それは確かに衰えていくのは冷厳な事実です。それでも下っていくのではなく、鷲のように翼を張って上っていく世界があります。それが主を待ち望む信仰の世界であり、今、クリスマスにおいて人となられ、わたしたちと共に、わたしたちのために歩まれた主キリストによっていっそう確かなものとされました。わたしたちの罪と疲れと弱さを自らの十字架で担ってくださり、そこから甦られた方によってです。だからわたしたちは「走っても弱ることなく、歩いても疲れ」ないのです。青年の時期が過ぎ衰えの中にあっても、病の床に伏しているときであっても、それでもこの新しさは決して失われることはありません。なぜならその新しさはわたしたち自身から生まれるのではなく、主を信じる信仰から与えられるものだからです。

この1年、わたしたち一人ひとりはそれぞれの独自の道を歩み始めていきます。現在直面している課題、これから直面するであろう問題はさまざまです。健康のこと、老後のこと、家族のこと、経済的なこと、仕事のこと、勉強と将来のことなどさまざまです。けれどもそれがどのような道にあっても、主はいつも共にいてくださいます。そして疲れた者には力を与えてくださるのです。だからわたしたちはどれだけ「走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。むしろ反対に「主に望みをおく人は新たな力を得 わしのように翼を張って上る」ことができるからです。

※教会員の方は以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第2 2020年1月5日