ルカによる福音書3.15~22 (2019.1.6)

新しい年、2019年を迎えました。今年は天皇が退位することにより平成という元号が変わりますから、二重の意味で新しい年ということになり何かと話題になっています。皆さんはどのような年末年始を過ごされたでしょうか。わたし自身のことと言えば、大阪の長女の家族が3泊していきました。普段は夫婦2人だけの静かな生活ですから、けっこう賑やかになりました。改めて子育て期にある家族のエネルギーというか、力強さを思わされました。そうした年末年始でしたが、わたしたちの群れの中には入院先の病室で、また施設で年を越した方々がおられます。自宅での生活であっても、何かと不自由な日々を送っておられる友もいます。そうした方々のことを思いつつ、この1年の守りをお祈りいたしました。また若い人では1学年ずつ進級していきます。新たな学校への進学もあります。就職して社会人として1歩を踏み出す人もいるでしょう。それぞれの門出にも、また主の導きを祈りたいと思います。

降誕節第2主日礼拝の今日は、ちょうど6日ですから公現日の主日となります。聖書の箇所としてはイエスの洗礼が与えられました。クリスマスにおいてもそうでしたが、このイエスが公生涯に入るときにも、並行して語られるのがバプテスマのヨハネの活動でした。彼は荒れ野から叫ぶ声として、人々に悔い改めを語り、悔い改めにふさわしい実を結べと説いてきました。その語り口、内容にはまことに力がありました。当時人々の間ではメシア到来の希望が高まっていましたので、もしかしたらヨハネがその人、メシアではないかと心の中で考えていました。そうした中にあっても、ヨハネは自分の働きの重要性とその限界を心得ていました。彼は人々にこう言いました。「わたしはあなたたちに水でバプテスマを授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちにバプテスマをお授けになる」。これがヨハネの役割とその限界です。

バプテスマのヨハネの語った洗礼、そして実際行っていた洗礼は、悔い改めのバプテスマとも呼ばれています。人々が心を入れ替え、回心をし、荒れ野のような荒れた心を平らにする。そして心を神に向って整えるというものでした。それを同じ3章冒頭で次のように述べています。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」。バプテスマのヨハネの語ったメッセージは、厳しくもあり、同時に慰めに満ちたものでした。彼はそのように人々を悔い改めに導き、その心を神に向って整えたのですが、それで終わりというわけではありませんでした。ヨハネの最終的な使命はイエスを指し示すことにあったからです。宗教絵画などを見ますと、そこで描かれるヨハネはたいていイエスを指で指したり、視線をイエスに注いだりというように、ヨハネ自身で完結してしまうのではなく、あくまでイエスに先立つ者として描かれていることに気づくのではないでしょうか。

バプテスマのヨハネが水で洗礼を行ったのに対し、もう一方のイエスは聖霊と火でバプテスマを授けられました。聖霊と火、それは終末期に与えられる神の力であって、具体的にはペンテコステに弟子たちに注がれた、あの聖霊につながっていくものです。そこではこのように描写されています。「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2.1-3)。これが「聖霊と火」が示す一つの出来事であり、終わりの時に注がれるこの賜物がイエスの洗礼によって先取りされるように与えられるのです。同じ洗礼と言っても、ヨハネとイエスの洗礼では、その差異は歴然としていました。ヨハネが「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言いましたが、人の「履物のひもを解く」のは奴隷の役目とされていたことからも、その差異が示されているのではないでしょうか。

このようにバプテスマのヨハネの洗礼と並行しながら、イエスが授けられる洗礼の力、豊かさが前半で述べられているのですが、もう一つの洗礼が語られていることに目を向けることも必要です。それはイエスが受けられた洗礼についてです。一方ではイエスが授けられる洗礼、もう一方ではイエスが受けられた洗礼。それが21節に記されています。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受け、祈っておられると」とあるのがそれです。イエスが与えられる洗礼なら分かります。それは現在のわたしたちが受けた洗礼の源となっているものだからです。それに対して、イエスが受けられた洗礼にはどのような意味があるのでしょうか。なぜイエスは洗礼を受けられたのでしょうか。洗礼とは悔い改めと罪の赦しを得させるものです。主イエスは人々の罪を赦すために来られたのであって、彼には赦されなくてはならない罪はありませんでした。それなのに彼が洗礼を受けられる、その洗礼にはどのような意味があるのか。実際並行記事のマタイでは、洗礼の執行を依頼されたヨハネがそれを思いとどまらせようとしています。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」(3.14)。こうした戸惑いはヨハネだけではなく、わたしたちにも共通するものではないでしょうか。

ここにはクリスマスにも共通したメッセージが込められています。キリストは神の形でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の形をとり、人間と同じ者となられました。そしてへりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした(フィリピ2.6以降)。それが今ここで民衆と共に洗礼を受けられたことに表されているのです。キリストは「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」との御言葉も、このイエスの洗礼の理解の手助けとなるのではないでしょうか(ヘブライ4.15)。聖霊が降ったのは、このように罪人に交じって洗礼を受けられたときでした。そのとき「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」のでした。

これから新しい年、2019年を歩み始めます。けれどもわたしたちにとっての新しさとは、すぐに古くなってしまうような、そのような時間で量られる新しさでではありません。今日の週報の聖句にも記しましたように、それはキリストに結ばれているかどうかによる新しさです。その新しさは水平的な、時間によるものではなく、むしろ垂直的なところで与えられるものといえます。それは砂時計のようなイメージかもしれません。真ん中のくびれたところがキリストです。そこを通って下に流れる砂のように、キリストにあるときに新しい命が誕生する。それはたとえ外なる人は衰えていくとしても(そして実際衰える)、内なる人は日ごとに新しくなる、そのような質的な新しさなのです。それは上から与えられものなのであり、今わたしたちのために、わたしたちと共に洗礼を受けられたイエスにおいて豊かに示されているのです。