ルカによる福音書5.33~39 (2019.2.3)  

 断食とは旧約以来ユダヤの民が守ってきたもので、それは新約の時代に入っても出てきます。その断食に関して、次のような祈りが聖書にあります。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことに感謝します。わたしは週二回断食し、全収入の十分の一を献げています」(ルカ18.11以降)。ユダヤの人々にとって、断食をすること、祈ること、そして施し(献金)をすることは信仰の重要な業でした。このように祈ったファリサイ派の彼は、そういう意味では人々の見本となるにふさわしい宗教的な人でありました。ところが彼の中にはきわめて宗教的でない、むしろ反信仰的な部分も同居していました。そうした矛盾に自ら気づかず、こうした祈りをする、こうした祈りが堂々とできるところに、それがよく表されています。これは自分が正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して、その過ちを示すためにイエスが語られたたとえでした。  

 この朝の聖書はそのような断食を巡っての遣り取りです。人々はイエスに言いました。「ヨハネの弟子たちは度々断食し、祈りをし、ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています」。これはおそらく直前の箇所にある宴会を受けたものだと思います。徴税人のレビがイエスの弟子へと招かれたとき、その喜びのあまり彼は自分の家でイエスのために盛大な宴会を催しました。その席に招かれた人々はレビと同じような徴税人たち、すなわちファリサイ派から見れば、そういう人間でなかったことを感謝していた人々でした。だらしない人々、放縦な連中、不信仰な者たちと映っていたのです。

 そこでイエスは言われました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が奪い取られる時がくる。その時には、彼らは断食することになる」。イエスは断食を否定しているわけではありません。何よりもイエスご自身が荒れ野でのサタンの試みを受ける前に断食をされました。使徒言行録を読みますと、使徒たちはむずかしい決断の前に立たされたとき、またそれを実行する前には断食と祈りを行いました。ただし今は断食の時ではありませんでした。なぜならイエスがここに立っておられるからです。それは旧約以来長く待ち望んできたメシアが到来した時であり、神の国がこの闇の世界に訪れた時でもあったからです。従って今は断食ではなく喜びの時なのであり、宴会を催すにふさわしい時だったのです。まさにカナで行われた結婚式を、イエスが良きぶどう酒をもって祝福されたことにも通じるものです。それでもやがて花婿が奪い去られる受難の時が訪れます。イエスが受けられる苦難と死の十字架、その時には断食することになると言われたのでした。

 このように断食を巡る捉え方の違い、また断食に対する姿勢の違い、それは旧約時代とイエスによってもたらされた新約時代の違いでもありました。また別の言い方をすれば、古い世界と新しい世界の違いでもありまた。それを二つのたとえでもってイエスは語られました。一つは新しい服、布切れと古い服との関係です。新しい布切れで古い服の継ぎ当てをしようとすれば、その破れはいっそうひどくなるというものです。現代のように服に破れが出たらそれを繕うよりは、新しい服を買った方が安いし、時間もかからないという時代ではありません。繕って着つづけた時代です。そんな時代に生きた人々にはそのたとえがよく理解できたことでしょう。もう一つ、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたら、その新しいぶどう酒に古い革袋は耐えきれず破れてしまい、結果としてどちらもだめになってしまうというものです。これは誰もが知っている有名な言葉でしょう。古いものと新しいものとは共存しない、共存できないというのです。新約は旧約の土台の上に、しかも継続したところで生まれています。けれどもまた反面、そこには断絶もありました。パウロが次ぎのように語る通りです。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(ローマ3.21)。  

 「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」。これはよく教会の自己批判としても用いられます。われわれの教会は、イエスによってもたらされた福音、新しいぶどう酒を入れるふさわしい革袋になっているだろうか。この問いかけはいつもわたしたちの前にありますし、またそうでなくてはならないものでありましょう。さらには、このたとえは教会外のあらゆるところでも使われています。昨年暮れに発行された本に、現在のドイツの首相を務めているメルケルさんの「わたしの信仰」があります。この人は物理学を専攻した方であり、牧師を父に持つキリスト者でもあります。その信仰がこの本によく出ています。たとえばこんな言葉、「あらゆる問題、毎日絶望してもおかしくないような問題にもかかわらず、キリスト教信仰はわたしたちに明るく生きる能力も与えてくれます」。「キリスト教信仰は責任ある自由を可能にし、新しい課題も克服できるという確信を得させてくれます」。政治、経済、難民・環境問題、課題は山積していますが、信仰者としてそれらと向き合う姿がよく出ています。「氷のような情熱の人」という言葉を聞いたことがあります。それはメルケルさんにもふさわしく、忍耐と意志と信仰による希望と楽観主義をそこに感じました。  

 「新しいぶどう酒は新しい革袋に」。これは教会といった組織だけではなく、同時にわたしたち一人ひとりについても言えるのではないでしょうか。イエスによって与えられた福音の喜び、その恵みを受け入れる器として自分自身は歩んでいるだろうか。そのような生活がなされているだろうか。パウロは言いました。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。そして「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」と続けています(ローマ6.6,4)。新しさと古さ、古い自分と新しい自分。そしてパウロは次のように言います。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子にたいする信仰によるものです」(ガラテヤ2.20)。このキリストによってわたしたちに与えられた信仰、希望、愛という新しいぶどう酒、それを古いままの革袋にいれるのはふさわしくありません。わたしたちはキリストによって新たに造り変えられたのですから、新しい革袋として自らの生活をさらに築き上げていきますし、そのように導かれてもいきます。「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」。一歩一歩、主を信頼しながらそのように歩んでいきましょう。