ルカによる福音書8.4~15 (2019.2.17)  

 今、水曜日の聖書研究会ではルツ記を読んでいます。わずか4章しかない短い書物ですが、そこにはミレーの絵画で有名な「落ち穂拾い」の題材ともなるエピソードも描かれていて、中身は実に豊富です。旧約の律法に次のような言葉があります。「畑から穀物を刈り取るときは、その畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。貧しい者や寄留者のために残しておきなさい」(レビ23.22)。この律法の言葉に守られて、極貧の境遇にあった寡婦ルツは、腰をかがめて一日中落ち穂を拾い集めていたのでした。そうした貧しさと農作業の厳しさにもかかわらず、この物語には神の見えざる摂理の御手が働き、田園における牧歌的な生活の中にあって静かに、たくましく、しかも愛情と信仰が繰り広げられていく、そのようなストーリーなのです。  

 落ち穂拾いではありませんが、今日の聖書も同じく田園の様子が背景になっています。イエスは多くのたとえを語られましたが、その中の一つとして「種を蒔く人」は格別によく知られているのではないでしょうか。大勢の群衆が方々の町から集まってきたときのことでした。イエスは一つのたとえ話を話されました。それが種蒔きのたとえです。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」。これがたとえ話です。イエスは語り終えてから、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われたのでした。  

 皆さんはここまで聞いて、このたとえの意味がお分かりになるでしょうか。もちろん信仰についてのたとえであることは分かります。それならここで語られる「鳥が食べてしまった」とは何を意味しているのでしょうか。茨が押しかぶさってしまうとは、どのようなことを言っているのだろうか。それは弟子たちも分かりませんでした。そこでイエスに意味を尋ねたのでした。それに対するイエスの答えは次のようなものでした。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」。最初のたとえを語られたときは、イエスの前には大勢の群衆がいました。しかし今ここには群衆はおらず、弟子たちだけとの遣り取りのように見えます。すると群衆には最初のたとえだけが語られたのであって、そこから信仰とは何か、実を結ぶとはどういうことかを想像しなさいということなのかもしれません。そして弟子たちだけには、さらにたとえの説明をされた、そのような構成になっているようです。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」がそれを示しています。この秘密とか奥義という言葉、ギリシア語ではミュステーリオンと言い、英語の聖書ではミステリーとかシークレットと訳される言葉です。それが11節以降の説明に関係しているのではないでしょうか。もちろんそのように説明を受けたとしても、神の国はミステリーという謎の部分を含んでいます。だから秘密なのであり、説明を聞いたからとてすべてが明らかになるわけでもありません。  

 その説明、最初の道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちであると言われました。まさに「彼らは見ても見えず、聞いても理解できない」人々です。これは決して愚鈍とか鈍いというような人間の能力を言うのではなく、どこか上の空、あるいは自分の中に非常に硬い、素直でないものがあるからなのかもしれません。石地に落ちたものは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちである。こういうのを安易な熱狂主義と言いますが、一時的には喜びがあっても信仰が長続きしない。つらい試練に直面すると、それに耐えることができずへこたれてしまうケースです。茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。二番目の種の成長を妨げたのは外からの力であったのに対し、この三番目はわたしたちの内から生まれる誘惑の力です。ここには信仰の成長を妨げる茨が三つ語られています。「人生の思い煩い」、口語訳では「生活の心づかい」としています。どちらの言葉であっても、わたしたちの日々の生活を覆っているものではないでしょうか。そして富と快楽(楽しみ)、このような茨はわたしたちを内から覆いふさいで、たとえ信仰の実をつけるほど成長していても、熟するまでには至らないのです。  

 最後は良い土地に落ちたもので、それは立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人のことです。もちろんわたしたちが目指すのはこの良い土地の種であることは言うまでもありません。けれどもその実を結ぶには、忍耐が求められます。ちょうど農家が収穫を得るには、さまざまな手入れといった働きが必要であり、またそれなりの月日もかかります。すぐに収穫にあずかるわけではありません。信仰も同様です。実を結ぶまでには多くの戦いを経なくてはならないのです。それは前の三つの実を結ぶことがなかった種の経験からも分かります。そこには悪魔の誘いがあります。外からおとずれる苦難や試練があります。わたしたちの内から生まれる誘惑の力も無視できません。それでもわたしたちが決して忘れてはならないのは、信仰とは自分の努力とか能力によって成長するのではなく、上からの恵みによってであり、さらにはイエス・キリストの十字架と復活の秘儀によるものだということです。まさに使徒パウロが述べているように、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」とあるとおりです(1コリント3.6)。わたしたちは植え続けなくてはなりません。水を注ぐという働きも必要とされます。それは人任せではなく、自分の手で行わなくてはならないことです。それでも最終的な実りは、神の御手に委ねられるものなのです。なぜなら成長の源は神ご自身にほかならないからです。  

 神学者カール・バルトの本を読むと、よく出てくるものに「最後から一歩手前」という言葉があります。今は最後の時、神の国が到来する終末の時ではない。けれども最後から5歩も6歩も手前を歩んでいるのでもありません。そんなにのんびりと、緊張感なしに歩むのは信仰者にふさわしくないからです。わたしたちは「み国を来たらせたまえ」といつも祈るわけですが、その祈りをどの場所から行っているのかと言いますと、それこそ最後から一方手前のところで祈っているのです。み言葉の種がわたしたちの内にあって成長するのは、ひとえに神の恵みにより頼むことであり、忍耐強く持ちこたえていくことでもあります。神の国は秘儀であり、すべてが現在明らかではありませんが、それでもこの押し迫った時の間にあって、一歩一歩自分にできることを堅実に行っていきたいと願います。そこにこそ必ずや豊かな実を結ぶ成長があることを信じるからです。