ルカによる福音書11.14~26 (2019.3.17)  

 旧約聖書を読んでいますと、神が人間と同じように、いわゆる擬人化されて描かれている場面がけっこうあります。その分、物語としても生き生きとしていて、躍動感に満ちています。たとえば創世記3章に出てくるアダムとエバの物語。彼らが禁じられていた木の果実を食べてしまった後のこと、神がやって来ました。そのときの描写は次のとおりです。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」(8節)。そこで二人は隠れたわけですが、この「主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた」とはどのような音なのでしょうか。ドシドシというような重々しい足音でしょうか。興味がそそられます。あるいは神の顔とか手についてはこのような記事があります。モーセが十戒を授けられたときの場面で、神がモーセに語られた言葉です。「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後ろを見るが、わたしの顔は見えない」(出エジプト33.21-23)。これも面白い表現です。神がご自分の手でモーセに目隠しをする。そして手を離したときには、神の顔を見えず後ろ姿しか見えませんでした。  

 もう一つ、擬人化で興味ある言葉が指です。神の指。これも十戒をめぐってモーセとの遣り取りの箇所です。「主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった」(31.18)。神の指で石の板に十戒を記されたのでした。その「神の指」が今日の聖書に出てきました。新約聖書ではここにしか出てこないめずらしい言葉です。「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)。十戒を石の板に書き記したときもそうですが、ここでも神の指は単数形です。つまり1本の指です。ならばどの指で十戒を書かれたのだろうか、悪霊を追い出されたのだろうかと想像します。親指では指紋を取るようで何か変かもしれない。小指や薬指では頼りないような、迫力に欠けます。やはり中指か人差し指あたりを想像するのが妥当でしょうか。  

 ここに口が利けないという障がいを抱えた人がいました。聖書の時代、それは多くの場合悪霊にとりつかれていると思われていました。イエスはその人を苦しめていた悪霊を追い出しました。するとその人が癒されてものを言い始めたので、人々は驚きました。ところがそれを見て、中にはこのように言う者がいました。「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」。あの男とは、イエスのことです。ベルゼブルとは「悪霊の頭」のことで、同じように悪霊だというのです。つまりイエスは悪霊の頭であるベルゼブルの力で、悪霊を追い出しているのだ。だからイエス自身も悪霊にとりつかれた仲間なのだということです。それに対して、イエスは次のように言われました。「サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」。そしてこんな皮肉を付け加えられました。「わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか」。  

 この話は現代のわたしたちにとって理解しにくい内容の一つです。いったい悪霊とは何か。それは古代社会の迷信から生まれたものではなのだろうか。今日この言葉が用いられるとしたら、それは小説など文芸の世界のことであって、少なくとも病院では使われることはありません。それにもかかわらず現代のような科学的な社会であっても、すべてが科学的に説明できるわけではありません。わたしは最近読んだ本の中に「悪魔のささやき」という新書版があります。このようなタイトルが古代聖書の時代ではなく、今でも使われ、書店で販売されていることに驚きました。これは2006年の出版ですから、まだ10年少ししか経っていません。しかも著者は精神医学者で作家でもある加賀乙彦さんです。それによりますと、人間は意識と無意識の間のふわふわとした心理状態にあるとき、犯罪を犯したり、扇動されて一斉に同じ行動に走ってしまうと述べられています。その実行への後押しをするのが、「自分ではない者の意志」のような力、それを「悪魔のささやき」と言っているのです。著者が数多くの死刑囚と面談をした経験から、また戦前の軍国主義の集団性やオウム真理教事件などを分析した結果からの主張です。それを読んでいますと、悪魔とか悪霊という言葉を使うか使わないかは別にしても、そのように人間には分からない、自分でも理解できない闇のような力が今でも働いていることを知らされます。  

 今日は受難節第2主日、わたしたちはイエス・キリストの受難への道を辿っています。いと高き神の御子があえて人間の姿をとり、僕として歩まれました。わたしたちのために、わたしたちに代って、罪と重荷を背負って十字架に向かっての歩みです。そのようにイエスの苦難と死を辿るということは、同時にわたしたち自身を悔い改めに導くものでもあります。いったいイエスの苦難と死という鏡に映るわたしたち人間の姿はどのような姿をしているのでしょうか。それは自らが主となり、善悪を裁く者となり、自己正当化に至る高慢な姿だといえるのではないしょうか。罪と何ら関係のないイエスが僕として、神と人とに仕え、十字架の死に向かうとき、その罪を担われたわたしたちの姿は、そのように自ら主であろうとし、自分自身の助け手であとうとする逆の姿であり、それは誤ったものなのです。罪ある人間は決して主となることも、自分自身の救助者となることもできません。キリストから離れてそのように思うとき、そのように振る舞うとき、逆説ですがますます自分から離れていってしまい、助けなき自分を歩まざるをえません。それがキリストの受難という鏡から映し出される人間の姿なのではないでしょうか。キリストの苦難と死は、それほどまでに価の高い恵みの出来事であるということです。  

 「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。今がそのときです。病める者、苦しむ者、悩みの中にある者が癒されている今、それは悪霊の支配ではなく、神の国が到来している時なのです。確かにわたしたち人間は、自分自身でさえ制御できない様々な闇の力から今も攻撃を受けています。けれどもそれにもかかわらず、イエスが神の指、神の霊によってそうした悪の力、誘惑の力を追い払い、恵みの支配へとわたしたちを導いてくださっています。わたしたちはキリストの恵みから離れてひとかどの人間になろうとか、なれるとかといった誤った道から離れて、自らのために歩まれたイエス・キリストを見上げつつ、主に自らを委ねつつ歩んでいきたいと願います。