ルカによる福音書9.28~36 (2019.3.31)

 今日は3月31日、2018年度最後を主の日として迎えました。日本では明日から新しい年度となります。幼稚園や保育園、学校、また社会人としてもそれぞれ新たな歩みが始まります。毎年のことですが街を歩いていますと、袴姿の女性をちらほら見ました。大学の卒業式の帰りなのでしょうか。この袴姿、最近では低年齢化してきて、小学校の卒業式でもずいぶん見られるようになってきたと報道されています。わたしが13年間仕えた幼稚園ではまだ袴姿はありませんでした。まだ幼いからかもしれませんが、その後どうなっているのでしょうか。わたし長女の息子がこの春保育園を卒園しましたが、水色の蝶ネクタイをしている写真を送ってくれました。その中には女の子にも男の子にも、袴姿の子がいました。いずれにせよその善し悪し別にして、旅立ちの季節を迎えているということです。大きな希望と幾らかの不安を抱えながらの門出、それぞれの歩みに主の守りを祈りたいと思います。

 今日の聖書にも旅立ちがあります。イエスの旅立ちです。その出発はわたしたちの人生における節目とは違いますが、それでも主にとっては一つの決断に基づく旅立ちあります。それが31節に出ています。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」とありますが、その最期という言葉、英語の幾つかの聖書では“departure”と訳しています。出発という意味で、これもまたイエスの旅立ちなのでした。

 イエスはご自身がメシア(キリスト)であること、しかもそのメシアとは人々に仕えられる主ではなく、わたしたちのために十字架の苦難と死を引き受けられる方、そのようなメシアであることを明らかにされました。それから8日ほどたったときのことでした。イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブの3人を連れてある山に登られました。そこで祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝きました。見ると、2人の人がイエスと語り合っていました。モーセとエリヤです。いったいこの場面は何を言い表しているのでしょうか。

  モーセとエリヤは旧約を代表する人物です。モーセは十戒を神から受け取った人物、いわゆる「モーセの十戒」の授与者です。もう一人のエリヤは最も偉大な預言者と言われてきました。新約聖書では旧約聖書を表すのに「律法と預言者」という言い方がなされていますが、まさにその代表がこの2人であるということです。しかもこの2人は偉大な人物であったというだけでなく、その死においても謎の部分を含んでいたために、終わりの日に再び現れるとの期待と信仰がユダヤの民にはありました。申命記の最後34章はモーセの死で終わっていますが、それでも「今日に至るまで、だれも彼が葬られた場所を知らない」とあることから、そうした期待が生まれたのだと思います(6節)。もう一人のエリヤの最後はもっと劇的で、絵画・音楽の題材にもなるほど有名です。エリヤが弟子のエリシャと歩いていたときのことでした。そのときの様子を聖書は次のように記しています。「見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上っていった」(列王下2.11)。彼は死ぬことなく生きたまま天に上げられたのです。それゆえ彼ほど再び現れると期待された人はいませんでした。この2人がイエスと語り合っていたということ、それは旧約の期待と信仰のすべてがイエスに向かっていたということではないでしょうか。

 その2人が栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していました。現在のわたしたちの聖書ではここを「最期」と訳しています。すなわち死についてです。余談になりますが、最近わたしが特に感じていることの一つに、死にまつわる話題が何かと多いことです。新聞を読んでいましても、その下の広告や週刊誌の見出しを見ても、終活(就活でない)に関する記事が圧倒的に多いように思います。健康維持対策、高齢者ホームに入ったらいくらいるか、遺産の有効な活用の仕方等々。いつごろからこうした雰囲気になったのでしょうか。この最期という言葉、ギリシア語原文では「エクソドス」と言います。ご存知かもしれませんが、これは旧約の出エジプト記のタイトルでもあります。脱出、出発という意味です。冒頭の英語の訳はそこから来ています。それ以外にもここで訳されていますように死という意味もあります。ただここで話していたエクソドスとは死だけのことではありません。それゆえこの度新しく発行された聖書協会共同訳では、従来の口語訳聖書と同様に「最後」という言葉を使っています。もちろんそこでは十字架の死という最期も含んでいますが、それだけではなくその後の復活、さらには天に上げられる昇天も含んだ、そうした最後(終曲)という意味だと解釈しているからだと思います。

 その様子を見たペトロ、訳が分からないなりにもその喜びの言葉を語りました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。こう言っていると、雲が現れて彼らを覆いました。雲というのは、旧約聖書以来神ご自身が臨在されるしるしです。たとえばこのような描写が出エジプト記にあります。「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた」(13.21)。そしてその雲の中から声が聞こえました。「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」。それはイエスの受洗のときに臨んだ神の言葉と同じでした。「その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた」と聖書は次に記しています。「イエスだけがおられた」。言い換えれば、もはやモーセもエリヤもここにはいなかったということ。さらに言うならば、これまでがそうであったように、これからも、そしていつまでもイエスだけがわたしたちと共におられるということではないでしょうか。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたとおりです(マタイ28.20)。

 山の上で弟子たちが目撃したイエスの姿、それは顔の様子が変わり、服が真っ白に輝いた姿でした。いわゆる変貌のイエスです。それはこれからイエスが直面しようとするイエスの最後の姿を示したものでありました。その最後とはもちろん十字架の死という最期でありますが、それだけにとどまらず、それを突き抜けて、その死を乗り超えて復活された、さらには昇天という栄光の姿を示したものでもありました。「あなたはメシア」との告白をイエスが受けたとき、そのメシアとは人々からは排斥されて殺され、その後復活すると言われました(22節)。その全体が今イエスの変貌において示されたのでした。わたしたちのために、そのわたしたちの罪と数々の重荷を背負って、死に至るまで徹底して歩んでくださるイエス、それゆえに神はまた彼を高く引き上げてくださいました。その方、イエス・キリストだけがいつもわたしたちと共にいてくださいます。明日から始まる一人ひとりの新たな出発、それはまた今日と変わることのない着実な継続の日々でもありますが、わたしたちの道がたとえどのようなものであっても、このイエス・キリストを信じ、主を見上げながら歩んでいきたいと願います。