ルカによる福音書22.39~53 (2019.4.14)

 40日にわたるレントの歩みも、いよいよ今日が最後の1週間となりました。この最後の日曜日を「棕梠の主日」と呼んでいます。今の聖書ではなつめやしという言葉に置き換えられていますが、イエスがエルサレムに入城されたとき、人々が棕梠の枝を持って迎えに出たことからこのように呼ばれています(ヨハネ12.13)。ところがそうした歓迎はほんのしばらくの間だけであって、やがてイエスは多くの人から見捨てられ、また弟子たちにも逃げられ、たった一人で十字架の死へと進んでいくことになりました。そのように人間の気持ちが目まぐるしく変わる1週間の始まり、それが「棕梠の主日」です。

 現在行っているCSの消火礼拝では、この「棕梠の主日」の朝、6本あったローソクの火がすべて消えました。それは神の御子イエスが十字架の死につかれ、闇の力が世界を覆ったことを象徴的に示したものでした。その1週間の中でも、木曜日に当たる「洗足の木曜日」、それは今日の聖書の箇所にも相当しますが、弟子たちと共に最後の晩餐を分かち合い、その後ゲッセマネへ祈るために赴かれました。そこでユダの裏切りにより逮捕され、翌金曜日に十字架につけらえるという一連の出来事がイエスの受難のピークとなります。  イエスは弟子たちと最後の晩餐を共にした後、そのオリーブ山へ行かれました。他の福音書によりますと、その場所はゲッセマネと書かれています。「いつものようにオリーブ山に行かれた」とありますから、習慣としてここで祈っておられたのでしょう。またこの後ユダの導きで群衆が捕えにやって来るのですが、逮捕されることが分かっていても、隠れることなくいつものような振る舞いをすることによってご自身の身を任せられたのではないでしょうか。

 そこで弟子たちから離れて、ひざまずいて一人で次のように祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。次の43,44節は珍しい括弧で括られています。「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」。これは聖書冒頭の凡例に記されているとおり、ルカのオリジナルではなく後の加筆と見られるのですが、古くから重要な箇所としてここに加えられているという意味です。この中にイエスが「苦しみもだえ」とあります。聖書にはここにしか出てこない言葉です。ギリシア語で「アゴーニア」と言い、そのまま英語でアゴニーとなる言葉です。さらに言えば、その前に定冠詞をつけると、まさに「イエスのゲッセマネの祈り」を指す固有名詞となる重要な言葉となります。

 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。このイエスの苦悩の祈りを理解することは並大抵のことではありません。それはわたしたちの信仰の生涯における課題として最後まで残るものだと思います。杯とは、これから身に受けようとする十字架です。ここには二つの意志があります。一つは父なる神の意志、もう一つはイエスの意志。これまでイエスは父なる神の意志(御心)と一点たりとも違うことなく、その下で神の国を宣べ伝え、罪や不義と戦ってこられました。その意味では、「この杯をわたしから取りのけてください」は、正当な願いであり、神の子イエスがその杯を拒否する理由は十分にあるわけです。ところが今、その父の意志は逆転し、イエスに罪と不義に身を任せるようにと命じました。それは本来この世界が、またわたしたち人間が立つべき場所なのですが、イエスがそこに立とうとされたことでもあります。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と、自分の正当な意志でなく父なる神の意志を優先されました。ここには裁く神と裁かれる人間が、今イエスにおいて一つになろうとする矛盾が現れているのであり、それがイエスの苦悩の祈りにおいて示されているのでした。

 わたしたちも神の意志(御心)をいつも祈っています。「主の祈り」の三番目の祈願、「御心が天でなるごとく、地にもなさせたまえ」がそれです。父なる神の意志が天で完全に実現していると同じように、この世界でも、この地上でも実現しますようにとの祈りです。しかしその実現を妨げているのが、人間の、わたしたちの意志なのではないでしょうか。神の御心に背く、そして自分勝手に歩もうとする人間、その結果道を踏み外していく人間。意志薄弱という言葉があります。確かにわたし自身を見ても、それは当たっていまして、なかなか一つのことを貫徹できない弱さを持っています。しかし神の意志に背き、それに従わないことにおいて、それを意志と呼べるのかどうか疑問ではありますが、実に頑固、頑なな面を持っているのも事実ではないでしょうか。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです……善をなそうとする意志はありますが、それを実行できないからです」との御言葉がそうした自分の心に迫ります(ローマ7.15,18)。

 ついに神の御心はユダの裏切りによって実現いたします。多くの者を先導してユダがイエスのところへやって来ました。そしてイエスに近づきます。それがイエス逮捕の合図でした。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」。弟子の一人が(それはヨハネによりますとペトロと言われている)剣で守ろうとしましたが、イエスはそのままご自身の身を彼らに任せられました。なぜよりによって12弟子の一人であるユダがイエスを裏切ったのでしょうか。聖書では銀貨30枚のためだったと、お金のことを原因として挙げていますが、それだけでは到底彼の心を捉えきれないでしょう。最後に彼は自殺しますが、ユダはなぜイエスを裏切ったのか、自分自身でさえよく分からない部分があったのではないでしょうか。今日の22章の冒頭に、「ユダの中に、サタンが入った」という言葉があります(3節)。そのサタン、もっと大きな枠の中では、イエスの宣教開始のときの「荒れ野の誘惑」で出てきました。その後、「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と結んでいます(4.13)。その時が今再びここにおいて訪れ、ユダの中に入ったのでした。それが今日の最後の言葉、「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」に示されています。まさに6本のローソクの灯がすべて消える闇の時です。

 イエス・キリストはこのように死に至るまでご自身を不義と闇の力に任せられました。それはひとえに本来わたしたちが立つべき場所、人間が立たなくてはならない場所に、神の独り子イエスが代わって赴かれたということなのです。このことに深く思いを馳せながら、この受難週1週間を歩んでいきたいと思います。