ルカによる福音書24.1~12 (2019.4.21)  

 わたしたちの国では来月から新しい元号が採用されます。それをもって新時代が到来するというような雰囲気もあります。それに伴い来週から10連休ということでも、何かと話題になっています。新しい元号は、「令和」、出典は万葉集からとのことで、いかにも花鳥風月を愛する日本ならではの感じがします。わたしたちはもう一つの暦を用いています。一般に西暦と言われる暦で、今年は2019年です。この暦、厳密にはイエス・キリストを紀元としています。そういう意味ではきわめて歴史的であり、また信仰的な暦でもあります。キリスト誕生前を紀元前と言い、それをB.C.とも表します。これはBefore Christ(キリスト以前)で、それ以降をA.D.で表記します。今年はA.D.2019年ということです。そのA.D.、これは英語ではなく、ラテン語で「主の年から」という意味です。この主とは言うまでもなくイエス・キリストのことです。キリストの誕生に始まり、その働きの頂点となる十字架と復活により、新しい年が始まっている。それが今年は2019年ということでもあります。それをどれだけ意識しているかいないかは、人によってさまざまですが、しかし確かにそうした年をわたしたちは歩んでいるのです。

 今日はそのキリストの復活であるイースターを迎えました。先週の受難週において、イエスは十字架にて死に、墓に葬られました。安息日が始まろうとしていましたので、人々は急いで亜麻布にて包み、イエスの体を墓に納めました。そして今日の箇所冒頭が続きます。婦人たちは週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行きました。イエスの体をもう一度丁寧に包むためにです。この「週の初め」が今日の日曜日に当たります。わたしたちの使っているカレンダーや手帳では、日曜日から始まるものと、日曜日が最後に来るものが売られています。わたし自身は日曜から始まるものを用いていますが、それは使い勝手の良し悪しという以上に、そのような時間の流れを大切にしたいとの思いからきています。復活の日から1週間が始まるという時間です。

 婦人たちが墓に行ってみると、その入口を塞いであった大きな石がわきへ転がされていました。さらに墓の中に入ってみると、イエスの遺体が見当たりませんでした。そのため婦人たちは途方に暮れていますと、輝く衣を着た2人の人がそばに現れました。天のみ使いだと思います。婦人たちは恐れて地に顔を伏せますと、2人は言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。さらに続けました。「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。婦人たちはその言葉を思い出し、イエスの弟子たちにその様子を知らせました。しかし使徒たちは婦人たちの話がたわ言のように思われたので、信じませんでした。ただペトロだけは一人で墓に行きました。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰ったと今日の聖書は結んでいます。

 み使いたちが言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」。これがイースターのメッセージです。「あの方は、ここにはおられない」。こことはどこでしょうか。それは墓の中であり、死の世界です。婦人たちは、イエスへの親愛の情をもって、遺体を丁寧に包もうとしていました。それはそれで優しい気持ちであることに違いありませんが、墓は、死は決して行き止まり、最後の場所ではありませんでした。イエスはそこを最後の場所とすることなく、復活されたからです。「あの方は、ここにはおられない」。確かに一度はここにおられました。それが十字架の死であり、埋葬だからです。けれども今はもうここには実際おられなかったのです。

 神の独り子イエス・キリストは、本来わたしたちが負うべき罪の重荷を代って担ってくださいました。それがキリストの十字架です。それでも十字架の死が最終的な場所となったのではなく、その死から甦ることによって、わたしたちの罪や過ちのすべてを赦し、それらもろとも過去のものとしてくださいました。それについてある人がこう言っています。「失敗という人生はありません。ただ、自分が失敗だと思っている人生があるにすぎない」。わたしたちを悩ます苦悩や悲惨は、キリストがその十字架の死と共に葬り去ってくださいました。そこから新しい命が始まったのであり、新しい時代が到来したのでした。もうわたしたちは過去の古い自分ではなく、キリストの赦しと新しい命に満たされた新しい自分を生きていくことが許されているのです。それを聖書ではこう述べています。「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやからならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう」(ローマ6.4-5)。

 これがキリストの復活に生かされている者の現在の姿です。もう罪と闇の世界、死と墓は後ろへと過ぎ去り、新しい希望と喜びの命を生きることができるようになったのです。もちろん現実のわたしたちの生活には、確かに今でも苦悩はあります。途方に暮れるようなこと、行き詰まりを覚えるようなときもあります。喜びよりもそちらの方が多いかもしれません。それでもそうした思い煩いといった憂いの霧は、すべてキリストの復活によって取り除かれたのです。イエスは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16.33)。イエスの弟子たち同様、現在でもこの世に生きるということは数々の苦難を伴います。新年度が始まりまもなく1カ月が経とうとしています。まだ慣れない学校や仕事、そこにはいろいろな不安があり、失敗もあるでしょう。また病気の苦しみがあります。高齢の一人暮らしの不安、そしてその先の死も、墓を塞いでいた大きな石のように重くのしかかっています。けれどもそれらは「既に世に勝っておられる」主イエス・キリストのもとにある苦難でしかありません。だからいたずらに失望したり、意気消沈することは復活に生きる者にはふさわしくありません。そうではなく、勇気と快活さをもって歩むことがわたしたちにふさわしいのではないでしょうか。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(二コリント5.17)。それを可能にしたのが、今日、すなわちイエス・キリストの復活であるイースターなのです。