ローマの信徒への手紙1.16-17 (2019.5.19)

 わたしたちの教会では「愛唱讃美歌の集い」を設けていますが、讃美歌ではなく好きな聖書の箇所を募ったらどうでしょう。わたしの好きな聖書の言葉、その理由などを述べたりすることによって話の輪が広がっていくかもしれません。その愛誦聖句として、おそらく最も親しまれてきたのがヨハネ3.16ではないかと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。それ以外にも「わたしはまことのぶどうの木」とか詩編23篇などが比較的よく出てきます。

 今日の聖書の箇所、ローマ書1.16-17を愛誦聖句としている方はおられるでしょうか。その人はかなり神学的な人かもしれません。小見出しをつけている聖書では、ほとんどがこの16-17節の2節だけを独立させて区切っています。現在のわたしたちの聖書もそうで、「福音の力」との小見出しをつけているようにです。そして多くの研究者が述べている通り、この2節こそローマ書全体の主題でもあります。

  それはこの言葉から始まります。「わたしは福音を恥としない」。「恥としない」。別の言い方をすれば「恥ずかしいとは思わない」ということも可能です。どうしてこのような消極的な言い方をするのでしょうか。もっと積極的な言い方、たとえば福音を誇りに思っているとか、あるいは一つ前の15節のように「ぜひ福音を告げ知らせたい」というような表現を取らなかったのか。おそらくこれまでのパウロの伝道旅行において、うまくいったことはもちろんありましたが、そうでなかった部分が反映しているのではないかと想像します。その一つにギリシアのアテネにおける演説があります。パウロはアレオパゴスの真ん中に立って、ストア派の哲学者たちを前にして福音を語りました。最後にキリストの十字架の死と復活、すなわち福音の根幹に触れたとき、アテネの知識人たちはあざ笑いながら去っていきました(使徒17章)。アテネに教会が生まれなかったのは、福音がいかにこの世の知性と衝突するかを示したものでした。十字架の言葉(福音)はユダヤ人にはつまずかせるもの、ギリシア人には愚かなものと語っている通りです(1コリント1章)。ましてこれから福音を宣べ伝えようとしているところは、世界の都ローマでした。

 「わたしは福音を恥としない」。それでもそうした経験が、かえってパウロをして強い決意へと導いたのではないでしょうか。もはや人間的な力や、そこから生まれる恐れとか恥とかといったところのものは関係がない。「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。福音の真理はすべての人に見えるわけではありません。隠された真理だからです。けれども信じる者には大いなる力となり救いとなります。それはひとえに神の力に他なりません。福音がつまずきでも愚かなものでもなく、むしろ宝となるのは、この神からの働きかけ、その力よるものなのです。だからパウロその一点に堅く立とうとしたのでした。

 その福音について、さらにこう述べています。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」。義という言葉、それは一般にはほとんど使いませんが、聖書の中では旧新約問わず重要な用語として出てきます。特に「神の義」として出てくるのですが、それは神の正義、正しさという意味を第一としています。そのような神の義が福音の中に啓示されている。それはどういうことなのだろうか。実はこの聖句の解釈が宗教改革において大きな役割を担うことになりました。ルターの場合が有名です。彼はこのようなことを述べています。「わたしは罪人を罰する義の神を愛さなかった。いや、憎んでさえいた」。それはあわれな罪人を十戒によって圧迫するだけではなく、福音をもって苦痛に苦痛を加え、福音によって、その義と怒りをもってわたしたちを脅かされるのだから。福音の中に啓示されている神の義を、ルターは最初このように捉えていたのでした。一方には義なる神、正しい神がおられる。他方には不義なる人間がいる。そこから生まれるのは神の裁きであり、人間に対する神の怒りでしかない。それが福音の中に啓示されるとなると、果たしてそれは福音となるのだろうか。

 ここで重要な役割を果たすのが文法的な「の」の理解でした。「神の義」という「の」(属格)の理解です。通常それは神が所有する義、神の属性としての義と理解するものです。しかしそのような意味だけではありません。もう一つの意味があるとルターは捉えたのでした。これに関して、ルター研究者の徳善先生がこのようなたとえを用いておられます。「たとえば、『お父さんの贈り物』という言葉で説明しよう。この場合、『贈る』という行為をする主体はお父さんである。お父さんがひとたび『贈る』という行為をすると、その行為によって贈られた品物はお父さんの手を離れ、それを贈られた人の手に渡り、その人の所有物となる。ここでの『の』は、行為する主体を指すと同時に、行為の後にはそれが行為を向けられた相手にも及ぶという意味合いをもっている」。この場合の「の」は「行為者の属格」と呼ばれます(「マルティン・ルター」岩波新書)。

 「福音には、神の義が啓示されている」。その義とは、神の所有でありつつ、同時に神の手を離れ、今や贈り物、恵みの賜物となってわたしたち信じる信仰者に与えられたのでした。現在も改訂が続けられているルター訳聖書では、今日でもここを「神の義」と直訳せず、「神の前で妥当する義」と訳しています。これは逐語的な意味では正確な訳ではなくむしろ解釈だと思いますが、宗教改革の伝統、精神をこのような言葉で言い表しているのでしょう。

 「それは初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです」。ただ信じる信仰によってのみ、言い換えれば自分の努力や、もしあるとしたならば自分の能力によってさえも、それで命に至る救いを得ることはできません。そうではなくただひとえに信仰のみによって、それはまた上から与えられた恵みではありますが、その信仰のみによって神から与えられる贈り物、それが救いをもたらす神の義なのです。それを最後に、旧約聖書に出てくる預言者ハバクク書の一節を援用して述べています。それが「正しい者(義人)は信仰によって生きる」という御言葉です。

  「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じるすべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるからです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」。わたしたちのために、わたしたちの罪と弱さのために十字架の死に赴き、そこから復活された主イエス・キリストによる恵み、その福音はただ信仰によってのみ与えられているのです。それが神の義のなのです。