ローマの信徒への手紙1.18~23 (2019.5.26) 

 カール・バルトはここ18節から32節までに「夜」というタイトルをつけ、前半の今日の箇所(18~23節)をその夜の「原因」、そして後半を「結果」と記しています。このようにここは一連のテーマで語られているのですが、それだけでなく前の箇所を引き継いでもいます。前回の箇所(16~17節)を独立した箇所として扱いましたが、そのような面がありつつ、同時に次の箇所、すなわち今日の18節とも関係しているのです。それは「福音には、神の義が啓示されています」に対し、今日の冒頭にある言葉、「神は天から怒りを現されます(直訳「神の怒りは天から啓示されます」)が対照をなしていることから分かります。神の義という救い、恵みの別の側面として、このように神の怒りが語られ、この世界、人間の闇の現状をこれから語ろうとしているのです。

 「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対し、神は天から怒りを現されます」。神の義に対しては信仰の大切さが語られましたが、ここ神の怒りを招くのは反対に人間の不信心と不義でした。それをパウロは自然、すなわち天地万物の創造を通して示される神の御業と、それを受け止められない人間、あるいは誤って認識する人間の不信心について話を進めていきます。「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです」。さらにこう続けています。「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません」。

 神の永遠の力と神性は被造物に現れている。従って彼らには弁解の余地がないとまで聖書は語ります。直前歌った讃美歌にはそれがよく出ていました。「花も木も示す、主のみ栄え」と(3節)。これは従来の讃美歌90番の「鳥の音、花の香 主をばたたえ」などとも共通しています。こうした賛美は聖書の中に数多く出てきます。創造の御業を賛美するものの中で、わたしの好きな詩は詩編19編です。「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え 夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても、その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう」(1~5節)。

 話は少しそれますが、わたし自身は1955年発行の、いわゆる口語訳聖書で育ってきましたので、聖書の箇所はその訳で覚えています。今の詩編19編もそうです。それ以外にも23篇、121編といった有名な信仰の詩も口語訳聖書で暗記しています。その後31年間、新共同訳聖書をずっと読んできましたが、考えてみれば暗記という面ではほとんど覚えていないことに気づきます。昨年はさらに新しい聖書が出版されました。改定された訳ですから、すぐれたものに違いありませんが、それを記憶するという面では暗記力が衰えているだけに、この後どれだけ心に残っていくのだろうかと考えてしまいます。

 さて、このように自然を通して神ご自身の何たるかが現されているにもかかわらず、それを十分に受け止められないのが人間です。言い換えれば罪に歪められ、腐敗した人間の本性は、それを素直に賛美することもできなければ、また感謝することもできませんでした。今もそうです。それをパウロはこう述べています。「なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです」。心とは人間の中心を占める場所であり、感情や意欲の起こるところです。それは最も奥深い生命の座でもあり、この手紙のきわめて重要な用語の一つと言われます。その心が鈍く暗くなっている、そこ心に光りが届いていないゆえ、心の目が閉ざされたままの状態なのです。

 このようにもっとも人間の奥深い心が閉ざされたままですから、人間の知恵も十分に発揮されることがありません。発揮されないどころか、違って方向へと用いられていくのです。それが「自分では知恵があると吹聴しながら、愚かになり」と言われる状態です。知恵、ギリシア語でソフィアと言いますが、それはギリシア・ローマ世界では人間の誇りでした。しかし自分たちこそ文明人、賢いと思っていたその知恵によっては、神を知ることができませんでした。他方ではパウロも知恵を語りました。信仰者も知恵を愛します。ただその知恵とは、この世の知恵でもなければ、この世から生まれた知恵でもなく、神の知恵でした。ギリシア人が愛し誇りとした知恵と神の知恵は、言葉としては同じ知恵であってもまったく内容を異にしていることを次のようにパウロは語ります。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。』知恵ある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています」(1コリント1.18以降)。

 ゆがんだ人間の本性、それによってゆがめられた知恵は、神と人間の本来の関係を転倒させました。その最たるものが偶像礼拝です。「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです」。本来の神を示されながら、神のとしてあがめることなく、感謝することもせず、むなしい思いにふける。代わりに鰯の頭をはじめとしたさまざまな被造物が、信心の対象になっていく混迷した人間の精神です。それはまた金や物や地位への執着とも無関係ではありません。特に若者があこがれるアイドルという言葉が、偶像と同じ意味なのは興味深いことでもあります。人間は自分の頭で考えた、自分自身と同じ寸法で次々に神々を作っていきます。つまり偶像とは結局自分の願望(あこがれ)、自分の欲求の投影なのです。別の言い方をすれば、その人が神として拝んでいる、信心の対象として仕えているという形を取りながら、そこで真に礼拝しているのは結局自分自身なのではないでしょうか。つまり自分自身に仕えているということなのです。「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」とある通りです(フィリピ3.19)。

 神はイエス・キリストとしてわたしたちのところへ来てくださいました。歪んだ本性、知性を十字架の言葉と救いよって光当たるものとしてくださいました。もはや転倒して者ではなく、「神の永遠の力と神性」を感謝し、あがめながら歩んでいく者とされているのです。わたしたちは以前は神を知らず、もともと神でない神々の奴隷として仕えてきました。「しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている」、そのような関係へと、そのような恵みの中へと招かれているのです。