ローマの信徒への手紙2.1~11 (2019.6.16)

 旧約聖書の中に箴言という書物があります。ことわざ集、格言集といったもので、人生において、また信仰生活において必要な知恵を短くまとめたものです。その中の一つに次のような格言があります。「人のよしあしをいう者の言葉は おいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ」(18.8)。耳が痛い言葉です。これは口語訳聖書の言葉で、現在の聖書の訳は少し違っています。他人のよしあし、特に悪しき話題はまったく魅力的であり、それまで寡黙であった人でもとたんに雄弁になり、また正義感に満ち溢れるのではないでしょうか。まことに醜い人間性の一面です。ここで話題になっているのはあくまで他人です。自分ではありません。もし同じような悪しき噂が自分に向けられたどうでしょうか。それでもおいしい食物のように腹の奥にしみこむでしょうか。反対ですね。腹の奥にしみこむどころか、食欲さえなくなってしまうのではないでしょうか。それほど自分と他人は違うのです。

 「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」。この言葉からわたしたちは二重の間違い、罪が指摘されています。一つは裁きは神に属することで、人間に属することではないということです。神は神であり、人間はどこまでも人間、神ではありません。それは罪の中にある者であり、闇に迷う存在なのです。その中でなされる判断は、それが社会的・市民生活の中での裁きであれ、神の前の判断であれ、どこまでも暫定的であるという限界をもち、相対的なものでしかないのです。それに関しパウロは次のように述べています。「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」(1コリント4.3-5)。裁きを行う方は、ただひとり、神のみなのであり、この方が救うことも滅ぼすこともおできになるのです。

 裁きにおけるもう一つの過ちは、人を裁きながら自分も同じことを行っていることにあります。前の章で21にもわたる不義、悪のリストが語られました。「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲」。こうした悪行を行う自分を棚に上げて、人を裁いているのです。それほど自分のことは見えない、自分に甘いということでしょう。それをイエスは自分の目の中にある丸太と相手の目にあるおが屑の比喩で語っておられます(マタイ7.1以降)。ついでに言いますと、このおが屑と丸太という言葉、この度発行の新しい聖書協会共同訳では、おが屑と梁に改められています。新共同訳聖書が発行されてから31年が経過しましたが、丸太という言葉はついに定着しなかったということでしょうか。その前の口語訳聖書ではちりと梁という言葉でしたから、今度の訳はその一つずつを取ったことになります。

 人のことはよく見えると思っていても、自分のことは見えない典型的な出来事が旧約聖書に出てきます。ユダヤの王ダビデはバト・シェバという女性に対して罪を犯しました。それだけにとどまらず、ダビデはその家庭もろとも崩壊させてしまいました。そのとき主のもとから預言者ナタンが遣わされて、ダビデにこのような話をするのでした。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い 小羊は彼の下で育ち、息子たちと一緒にいて 彼の皿から食べ、彼の椀から飲み 彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに 自分の羊や牛を惜しみ 貧しい男の小羊を取り上げて 自分の客に振る舞った」。それを聞いたダビデはその男に激怒し、「そんなことをした男は死罪だ」と言うのでした。そこで預言者ナタンは言いました。「その男はあなただ」(サムエル下12章)。ダビデはその男に激怒するくらいでしたから、善悪の判断は間違っていませんでした。けれどもそれはあくまで他人に関してであって、自分とは無関係のこととして聞いていたのでした。それほど自分のことは見えないのです。

 「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」。そしてさらにパウロはこう述べています。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐を軽んじるのですか。あなたは、かたくなで心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています」。神は自分を正当化し、自分を絶対化して人を裁いていくわたしたち人間の誤った道が正されるよう、そして悔い改めるよう、深い憐れみをもって、また慈愛と寛容と忍耐をもって見つめておられるのです。どうして神の寛容と忍耐を軽んじてよいでしょうか。

 それは旧約以来の民であるユダヤ人であろうと、ギリシア人を代表とするそれ以外の異邦人であろうと同じです。ユダヤ人は特別神に選ばれた人々でした。しかしだからといって何でも許されたわけではありませんでした。律法が与えられた者としての責任を伴っていたからです。神は人間がどの民族・人種であろうと、どのような出自であろうと、偏り見ることはありません。それが9節以降の言葉で言い表されています。「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません」。神は相手が誰であろうと、大きな者であれ小さな者であれまったく公平であり、何を行うのか、行おうとしているのかに着目されるのです。

 このようにわたしたちは人間がなすこの世の裁きではなく、神の正しい裁きの前に立たされているのです。そこでは神の限りない慈愛と寛容と忍耐、他方では神の怒りと憤りのもとにあるという、二つの緊張関係のもとに立っているということでもあります。しかしわたしたち人間は肉なる者であり、善を行うにはあまりにも無力であるのも事実ではないでしょうか。そのように生きたい、そうした神が指し示される善き業を行うことによって平和に過ごしたいとの願いはあるのですが、それを実行できない。それを行うにはあまりに無力であって、むしろ反対の方向へと流されている自分を経験するばかりではないでしょうか。実はこの裁きと恵みこそ、主イエス・キリストにおいて一つとなりました。キリストは裁き主であると共に、ご自身裁かれた人の子として裁かれる者の救い主ともなられたからです。それが十字架の主イエス・キリストです。わたしたちはここに立つことによって、はじめて栄光と誉れと平和が与えられるのです。