ローマの信徒への手紙2.12-16 (2019.6.23)

 水曜日の聖書研究では、現在サムエル記の上を読んでいます。初代イスラエルの王サウルが失脚する箇所で、次にダビデが新たにイスラエルの王となっていくところです。大きくはイスラエルの王国成立史であり、またその王国が滅んでいく歴史です。そうしたイスラエルの歴史を1章ずつ読みながら、出席者の仲間たちといろいろ話し合っているわけです。そこには人間の残酷さ(信仰者であっても)や弱さが出てきます。反対に人間の優しさや信仰深さも語られています。それらがはっきりと出ている部分、あるいは隠されているものなど汲み取ろうとしているのですが、決して容易なことではありません。それでも何らかの新しい光を与えられるものです。

 旧約聖書はそのほとんどがイスラエルの歴史、預言者の言葉、詩編などによって構成されています。そのように主なる神はイスラエルの神として語られているのですが、しかしイスラエルだけの神ということでもありません。聖書の最初の書物創世記によれば、神は天地万物を造られた神として始まります。イスラエルにご自身を現され、その民を導いてこられたのですが、他に民を忘れておられたわけでもないのです。それが現在のローマ書で語られている異邦人への言葉につながっていきます。1章19-20節でパウロが語っている通りです。「神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができるのです」。

 それを背景にして先週の箇所の最後で「神は人を分け隔てなさいません」と語り(2.11)、具体的にはその前の9節以降で「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます」と述べるのでした。そして今日の12節では、その分け隔てされない神のあり方を別の視点で語るのです。現在の新共同訳聖書とは違い、前の口語訳聖書と新しい聖書協会共同訳聖書では、ここ12節からは新しい段落としています。わたしもその判断を取りました。

 「律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます」。これは具体的にはギリシア人を代表とするユダヤ人以外のすべての人々(異邦人)と、律法を持つユダヤ人のことを述べたものです。つまり人間を人種とか国籍とか言語の違いで分けるのではなく、ただ一つ、律法を持っているか、持っていないかで区別しているのです。そして今日の箇所を読みますと、聖書が語る人間とは何か、どのような存在なのかの一端がよく出ていると思います。

 まずその前に律法とは何でしょう。ヘブル語でトーラー(ギリシア語でノモス)と言い、ユダヤ人においてはただ単に神からの戒めというだけではなく、神からの啓示のすべてを意味していました。旧約聖書最初の五書を指しますが、その内容からも分かりますように、戒めだけでなく、勧告、信仰告白、礼拝内容等、ユダヤ人の日常生活のあらゆる領域に及んでいます。つまり信仰生活だけでなく、市民生活のあり方やそれを支える法律など、すべてがこの律法に含まれているのです。彼らにとってはこの律法に沿って生活することが最重要でしたが、ともすればファリサイ派のような律法主義的な自己義認に陥りやすい面もありました。

 イエスが語られた次のようなたとえが、ユダヤ人の意識をよく表しています。自分は正しい人間(義人)だとうぬぼれて、他人を見下している人々について語られたものです。二人の人が祈るために神殿に上っていきました。一人はファリサイ派の人、もう一人は徴税人でした。ファリサイ派の人は立って心の中でこのように祈りました。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」。すごい自信と、他人への蔑みですね。これが神殿の真ん中、すなわち最も宗教的な場所で行われていたのです。他方では徴税人が遠く立って、目を天に上げようともせず胸を打ちながら言いました。たった一言、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。そこでイエスが言われました。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(ルカ18章)。義(救い)とは自分で自称するものではなく、神によって義とされる、神によって与えられるものなのです。

 もう一方の律法を持たない異邦人はどうなのか。こう語られています。彼らも「律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです」。異邦人でも律法の命じるところを自然に行うことができる。それはユダヤの民のようなモーセの律法そのものではなくとも、善悪の判断、その他もろもろのことは生まれたままの状態であっても備わっているというものです。これをカルヴァンは「ある種の初歩的概念」と言っています。異邦人であっても律法の要求する事柄がその心に記されているのであり、彼らの良心もこれを証ししているというのです。律法とは関係のない人々、旧約聖書の歴史の外にあった人々、すなわちギリシア人をはじめとした全世界の異邦人、彼らにもトーラーとしての律法ではなくとも、その要求する事柄が心に記されているというのです。もちろんそれがすぐさま義につながるわけではありませんが、彼らの良心もそれを証ししているのです。ここに新しい言葉、良心が出てきました。もちろんこの良心は、信仰の光に照らされた良心とまったく同じというわけではないと思いますが、ここには信仰以前の人間とは何かがよく示されているのではないでしょうか。

 神は人を分け隔てなさいません。律法を持つことだけで優位になったり、持たないことが不利であるというわけではありません。ユダヤ人が特別扱いされるわけではなく、異邦人が粗末に扱われるわけでもありません。人は各々の仕方で裁き、また裁かれているのであり、一方では祝福が与えられ、他方では責められてもいるのです。ただ現在の歩みは誰にとっても旅の途上です。すべてが明らかになっているわけではありません。「隠れた事柄」(16節)は、やがてキリスト・イエスの日において明らかになるのであって、その日まで待たなくてはなりません。そのためには忍耐が求められます。しかしその忍耐は希望を伴った忍耐でもあります。いつもわたしたちの重荷を担ってくださり、また共に歩んでくださる主イエス・キリストを心から信じつつ、深い確信をもって歩んでいきたいと思います。