ローマの信徒への手紙2.17~24 (2019.6.30) 

先日わたしは映画を見てきました。現在も岩波ホールで上映している「ニューヨーク公共図書館」という題名の映画です。とても重厚な映画で時間も3時間25分、途中で休憩が入りましたが、さすがにお尻も痛くなったほどでした。これを見て、図書館にはさまざまな機能があることを知りました。その一つに手話の講座が開かれていて、そこで題材として取り上げられていたのはアメリカの独立宣言でした。「すべての人は平等に造られ、創造主によって、一定の奪いがたい天賦の権利を付与され」という有名な文言が入る宣言です。この独立宣言を起草したのはT.ジェファーソンで、彼はこの宣言に奴隷解放を盛り込みたかったそうです。しかしプランテーション経営者たちが多くを占める南部の反対で断念せざるをえませんでした。それを会場から2名のボランティアを募り、1人には満足げにこの宣言を朗読し、もう1人には怒りをもって朗読してもらうという企画です。非常に印象に残りました。自分がしたいこと、しかしそれができず妥協せざるをえないのは特に政治の世界かもしれませんが、それはまたどのような社会生活であっても、また自分自身の中でも、こうありたい部分と実際にあることとの間に溝があるのは共通しているのではないでしょうか。

ローマ書はこれまで律法を持たない異邦人について主に述べられてきました。異邦人はユダヤ人のように律法が与えられはしませんでしたが、それでも彼らなりに律法の要求が心に記されていて、それに従えば栄光と平和が、反対にそれに逆らえば悩みと苦しみがあるというものです。そこで今度はユダヤ人について語られます。それが今日からの箇所です。ユダヤ人の場合ははっきりと律法によって神の御心が示されてきました。それがこの歴史において特異な存在として立てられてきたのです。その特異性がまず5点にわたって述べられます。「あなたはユダヤ人と名乗り、律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知り、律法によって教えられて何をなすべきかをわきまえています」(17-18節)。ここで言うユダヤ人という呼び名は、日本人とか中国人といった国名、人種名いうような社会科で習う名前ではありません。そのような世界の多くの国々の一つとしてのユダヤ人ということではなく、神によって選ばれた唯一無二の民、すなわち選民としてのユダヤ人ということです。それゆえに彼らには契約のしるしとして律法が与えられ、そこから神の御心が文字といてはっきりと記されてきたのでした。そうした意味では、ユダヤ人の生きる道は他の異邦人の道とはまったく違い、その責任においも異なっていたのでした。

ところがその彼らの恵みよる得意性は、誤った方向へと進んでいきました。彼らがユダヤ人として特別の存在になったのは彼らがすぐれていたからではありませんでした。むしろ他のどの民よりも貧弱でした。ただひとえに神の恵みの選びによるものだったのです(申命記7.6)。「律法に頼り」ということは積極的に律法に頼るということではなく、口語訳の「律法に安んじ」とあるように自分たちには律法があるという誤った安心感やうぬぼれを意味しています。「神を誇る」も「誇る者は主を誇れ」といった良い意味ではなく、自分たちだけには神との特別の関係を持つ、そのような自分を誇っていたのです。そして「御心を知る」、あるいは「何をなすべきかわきまえている」と続きます。しかし知っていること、それだけで立派ということではありません。知っていることと、それを行うこととは同じではないからです。

そこでこのように続けます。「律法の中に、知識と真理が具体的に示されていると考え、盲人の案内者、闇の中にいる者の光、無知な者の導き手、未熟な者の教師であることを自負しています」。このように4点にわたって並べられていますが、もちろん前が異邦人、後の言葉がユダヤ人を意味していることは言うまでもありません。「盲人」「闇の中にいる者」である異邦人に対し、その「案内者」「光」であるユダヤ人。これはパウロというよりは、ユダヤ人の中のファリサイ派など指導者たちの捉え方であったのだと思います。もちろんそうした導き手、教師という側面はありました。しかしそれはユダヤ人そのものの能力によるものではなく、彼らに与えられた律法の知識と真理によるものでした。旧約聖書に次のような美しい出来事がります。異邦人の地、シドンのサレプタにひどい飢饉が襲ったときのことです。そこに住む貧しい婦人と息子がいました。そこへ預言者エリヤが神から遣わされました。女性は言うのでした。「わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」。そこでエリヤは「恐れてはならない」と言って神の言葉を語りました。すると「主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることはなく、瓶の油もなくならなかった」と聖書は告げています(列王記上17章)。

そのように異邦人の光ではありましたが、ユダヤ人にはもう一面がありました。パウロはさらに続けます。「それならば、あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか。『盗むな』と説きながら、盗むのですか。『姦淫するな』と言いながら、姦淫を行うのですか。偶像を忌み嫌いながら、神殿を荒らすのですか」。いわゆる言うことと行うことが違っているということです。立派なことを語る、主張することはできる。しかしそれを実行できない。ある人はこれを「信念の高血圧と行為の貧血症状」と呼んでいました。この世界の暗い現実の一つは、このように「あるべきこと」と「あること」の間にある深い分裂があることです。それに関してイエスも次のように言われました。ファリサイ派や律法学者を指して、「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」(マタイ23.3)。まことに手厳しい批判です。

「あなたは他人に教えながら、自分には教えないのですか」。信仰は自分の正しさに固執するのではなく、神の正しさに立つことです。神の救い、恵み、その神を誇るのであって、自分を誇るのではありません。自分の正しさ、自分に固執すればするほど、逆説ですが、ますます自分から離れていってしまうからです。別の箇所でパウロはこう述べています。「律法による自分の義ではなく、キルストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようなるためである」(ピリピ3.9口語訳)。「キリストのうちに自分を見いだす」。自分に向けてではなく、その自分から目を離して、また自分を明け渡して、神に向って目を上げ、そこから与えられる豊かな賜物と御業を仰ぎ望むとき、人は真の力が与えられるのではないでしょうか。人間が生きていく力、生きる勇気、喜びは己から生まれるのではなく、上から与えられるものなのです。それが恵みによって生きることなのです。