ローマの信徒への手紙3.1~8 (2019.7.14)

旧約聖書の中にホセア書という預言書があります。この書物は、ホセア個人の家庭とイスラエルに向けられた神の思いを重ねた書物で、特に愛を強調しています。預言者ホセアの妻は家を出てしまい、彼の家庭は崩壊していきます。それでもホセアは身を持ち崩した妻を探し求めていきました。そしてこれと並行して、神に背いていくイスラエルの民を神がそれでも愛してやまないことをホセアは預言者として語っていきました。普通の人間関係ならば、一方が約束を破る場合、また破り続けるならば、それでも関係を維持していくことは並大抵のことではなく、ほとんどの場合は破綻してしまうのではないでしょうか。しかし聖書に現された神の愛はそうではありませんでした。

「それはいったいどういうことか。彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか」とこの朝パウロは語りました(3節)。イスラエルの民は神によって選ばれ、特別に導かれた民でした。その優れた点は数々ありますが、何よりも神の言葉が彼らにゆだねられたことはその最たるものと言えましょう。具体的には文字として、律法として、聖書として彼らに神の言葉が与えられたということです。それゆえにユダヤ人には何が神の御心なのか、自分たちはどのように生きるべきなのかの道しるべが知らされていたのです。しかし御心を知っていることと、それを守ること、行うことの間には天と地ほどの開きがありました。ホセア書をはじめ旧約聖書の歴史は、ある意味では人間の裏切りの歴史であり、不信仰の歴史でもありました。他方、神の側から見れば裏切られる歴史であると言ってよいと思います。それでも神はその都度、怒り、裁きはしますけれど、イスラエルと結んだ契約を決して破棄することはありませんでした。イスラエルの民に向けられた愛を捨て去ることもありませんでした。ユダヤの民がいかに不信仰、不誠実に陥ろうとも、神の真実、神の誠実は揺れ動くことはなかったのです。そういう意味では片務的な関係、契約であったといってよいかもしれません。

今アメリカの大統領トランプさんが、日米安保条約はアメリカにとって不平等だと言っているとマスコミが伝えています。彼はビジネスマン出身らしく、アメリカばかりが負担しているということでしょう。自国の軍隊を出して日本を守っているが、日本はアメリカを守らないというようなことです。そういう意味で片務的な条約だと言うのでしょうか。もちろん日本もそのために基地を提供し、お金もずいぶん出しているわけで、そのあたりを日本政府も主張していると思います。この条約が平等で均衡が取れているかどうかはさておき、神とイスラエルの契約は、それとは違って片務的な関係になっているのではないでしょうか。もちろんイスラエルの民も契約の言葉に従うように召されてはいます。それでも実態は従い得ない歴史でありましたし、それにもかかわらず神の誠実さが決して失われることがなかったからです。

「彼らの中に不誠実な者たちがいたにせよ、その不誠実のせいで、神の誠実が無にされるとでもいうのですか。決してそうではない。人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです」。ここでの誠実という言葉、ギリシア語ではピスティスと言い、ほとんどが信仰と訳されています。それ以外にも、他の聖書が行っているように真実という訳でも可能です。イスラエルが立つことができたのは、彼らが信仰的であったからとか、宗教的な資質があったからというのではありませんでした。むしろ他の民族同様、不信仰な民であり、不誠実以外の何者でもありませんでした。偽り者、うそつきという点では、変わりはなかったのです。彼らがユダヤ人として優れた面を保持しながら立ってこられたのは、ただ神の信仰、真実、誠実だけによるものだったのです。「人はすべて偽り者であるとしても」、いや、実際好んでであろうとそうでなかろうと、わたしたちは偽り、虚偽虚飾を身にまとって生きています。外の顔と内なる顔は違っています。それでもユダヤ人を支える神の真実なる信仰は、そうした人間の不誠実に左右されることはありませんでした。まさにテモテ書が次のように語る言葉の通りです。「わたしたちが誠実(真実)でなくても、キリストは常に真実であられる」(2テモテ2.13)。これが神と人間の関係であり、人間に対する神の真実なのです。

このように神の真実は、人間の不誠実によって左右されない、揺れ動くことなく一貫しているのですが、ここにはもう一面が明らかにされていきます。それは神の真実は人間の不誠実によっていっそう鮮明になるという面です。「わたしたちの不義が神の義を明らかにするとしたら」(5節)、「またもし、わたしの偽りによって神の真実がいっそう明らかにされて」(7節)がその面を語っています。神の真実は人間の不誠実にもかかわらず変わることのないばかりか、さらにそうした人間の不誠実に直面することによっていっそう発揮されるのであり、それが神の栄光となっていくのです。ところがこうしたメッセージを受けて、別の主張をする人々がいたようです。それが8節の言葉です。「もしそうであれば、『善が生じるために悪をしようではないか』」。こういうのを屁理屈というのでしょう。どの世界にも見られることですね。自分たちの不誠実が神の善を引き出すのに貢献しているというものです。これこそがまさに人間の不真実、不誠実なのではないでしょうか。

「ユダヤ人の優れた点は何か。割礼の利益は何か」。わたしたちはこれまでユダヤ人、あるいはユダヤ人キリスト者としての問題として読んできました。しかしこれは同じようにキリスト者、わたしたち信仰者に置き換えることもできるのではないでしょうか。「キリスト者の優れた点は何か。洗礼の利益は何か」。ユダヤ人にとって他の人々は異邦人でした。現在のわたしたち信仰者にとっては、この野方の町の人々であり、まだ教会を知らない人々のことでもありましょう。確かにわたしたちには神の言葉が与えられています。神の国の何たるかもそこから示されていますし、おぼつかないなりにも何とかそのように歩んでもいます。そうした中で他の人々よりは少し賢くなったような気にもなるかもしれません。自分たちは聖書を知っている。自分は教会に行っている。反対に町の人たちは聖書を知らないという立場から、わたしたちをそのように見ているのでしょうし、それゆえに教会の敷居が高くなるのかもしれません。けれどもユダヤ人がそうであったように、わたしたちが今ここに立つこのできているのは、自分の資質によるとか、自分の誠実さによるのではありません。そうではなく神の真実、その信仰によってのみ立つことが許されているのです。人間の信仰はたとえどれだけ真面目であったとしても一貫性に欠け、不安定さを免れることはできません。それに対して、わたしたちの主イエス・キリストの信仰、真実は決して揺らぐことなく、きのうも今日も、いつまでも変わることがありません。そのキリストの真実にわたしたちは委ねて歩んでいきたいと願います。