ローマの信徒への手紙3.21~26 (2019.7.28)

今わたしたちが読んでいますローマ書で重要な言葉は、「神の義」、あるいは「神によって義とされる」であるのは、これまでにもお話ししてきました。それはこれからもローマ書を読んでいく限り続きます。神の義については、すでに「あかしびと」の6月号の巻頭説教でまとめておきました。そしてこの朝この神の義が、再び力を込めて語られるのをわたしたちは聞くことになります。それが冒頭の聖句です。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」。「律法とは関係なく」、「しかも律法によって立証されて」と律法がどちらにも出てくると、一見相反する言葉のように聞こえるのではないでしょうか。そこでは何を語っているのでしょうか。律法とはユダヤ人にとっては信仰の根幹をなすものであり、さらには宗教に関する規程だけにとどまらず、市民生活に必要なすべてがここに含まれた神からの啓示の言葉でした。しかし律法は人々に正しい要求はしましたが、それを実行する力は与えませんでした。それゆえ律法を実行することによっては、誰一人神の前で義とされることがありませんでした。「ところが今や、律法とは関係なく」、すなわち律法の行いによってではなく、別の新しい道を神は用意してくださいました。それが「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」でした。しかもその「信じる者すべてに与えられる神の義は」、同じく「律法と預言者によって立証されて」もいました。「律法と預言者」とは旧約聖書全体のことです。その旧約聖書において既に神の義は示されていたのです。

「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」。その義とは、すなわち神による救いであり、ただイエス・キリストを信じる信仰によるのであって、もはや律法の行いによるのではありませんでした。まさにキリストによる恵みなのです。律法は要求し、恵みは与えるといいます。律法はわたしたちに働くことを命令するが、恵みはそれ自身わたしたちのために、わたしたちに代って働きます。人が信仰に至るのは、いかに努力するか、いかにもっとましな人間になるか、あるいはまともな生活を送るかというところによって成り立つのではなく、ただ恵みの源であるキリストを信じる信仰、そこに自らを委ねていくことなのです。「そこには何の差別もありません」とパウロは語ります。わたしたちは律法を持つユダヤ人であろうとそうでないギリシア人であろうと、そこには差別はありません。子どもであろうと老人であろうと、金銭に恵まれている人であろうとなかろうと、健康な人であろうと病弱な人であろうと、さらには深刻な悩みの中にいる人であろうと比較的平穏な生活の中にある人であろうとも、神の義において差別はないのです。

今日の宣教題は「二つの平等」としました。これは政治的・社会的な意味で使っているのではありません。神の義というきわめて信仰的なところから導き出されたものです。人は神の御前でまったく平等である。それは二つの点においてです。その一つは、人間はすべて罪の中にあるという点において等しいことです。そこに例外はありません。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」とある通りです(23節)。わたしたち一人ひとりは神の御心に背き、御心を傷つけ、絶えず悲しませています。「彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」とヨハネが述べているように(ヨハネ12.43)、本質的なところで向いている方向が違っているからです。何でもない通常の生活においてはそれほどはっきりとはしなくても、特に大きな岐路に立たされたとき、人は信仰を、そして神さえ捨てることがあります。自分を守るためにです。ゲッセマネでイエスを捨てた弟子たちがそうでした。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなってい」るのです。

もう一つの平等は逆に肯定的なものです。それはすべての人に救いの道が開かれているという平等です。24節の「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」がそれを示しています。そこには何の分け隔てもありません。わたしたちは誰一人例外なしに、等しく神の救いへと招かれているのです。しかもそれは人間の努力や力によるのではなく、まったく神の側からの働きによって与えられる平等です。それが「恵みにより」という言葉であり、「無償で」という言葉で言い表されています。無償でという言葉は無料でという言葉に置き換えてもよいと思います。そのように神による救いの道は一方的に神から与えられたものであって、何一つ人間の働きによるものはありません。このようにわたしたちは神による二つの平等に挟まれて歩んでいるのです。「自分は良い人間ではないから恵みを受けて信仰者として生きるのはふさわしくない」という人は一人もいません。そのようなことを言わなくてよいのです。反対に「自分はそれなりに真面目に生活しているので、神の御心を悲しませているとは思わない。信仰は必要でない」と言える人も一人もいないのです。

もちろんそれを可能にしているのは、キリストによる贖いの業であることは言うまでもありません。ここに「罪を償う供え物」という言葉が出てきました。この言葉は旧約聖書を背景としたものです。古くモーセの時代、十戒を納めた契約の箱は人々の信仰の中心となり、まさにそこにこそ神が臨在されるとの信仰がありました。その箱は神殿の一番奥に置かれ、ケルビムの蓋で覆われた「贖いの座」と旧約では呼ばれていました。そこへ年一度大祭司が入り、犠牲の動物の血を振りまくことによって人々の罪の赦しを行っていたのです。今イエス・キリストは自らの血を十字架で流されることにより、年一度ではなく永遠の罪の赦しとなさいました。それが「その血によって信じる者のために罪を償う供え物」です。イエス・キリストご自身が大祭司となり、同時に自ら神の小羊として血を流し、それによって人々の罪を贖ったのです。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」と語るのはそれゆえのことでした(2コリント5.21)。

その神の義が今示されました。まさに「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」なのです(2コリント6.2)。イエス・キリストはわたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられました(ローマ4.25)。わたしたちはただ神の恵みにより、そしてキリストの十字架の死と復活により、この尊い命の贈り物をいただいたのですから、今ある重荷のすべてを主に委ねてキリストの信仰の道をひたすら歩んでいきたいと願います。