ローマの信徒への手紙3.27~31 (2019.8.11) 

わたしたちはこの朝最初に、誇りという言葉を耳にしました。「では、人の誇りはどこにあるのか」という言葉をもってです。皆さんはこの誇りという言葉をどのように理解していますか。またどんなところに誇りを感じているのでしょうか。「あなたの誇りはどこにありますか」と聞かれたならば。いやあ、わたしなんか誇りとするようなものは何もありません、と謙遜される方がおられるかもしれませんが、それでも人は何らかのものに誇りを抱いて生きているのではないかと思います。わたしも自分の場合はどうなのかと考えてみました。この誇りという言葉、そこには二つの面があると思います。一つは誇りをもって生きる、たとえば自分の家族や友人のことを誇りに思うとか、自分の仕事に誇りを持つというような積極的な一面がある一方、もう一面には自慢する、うぬぼれるといった人によっては鼻に付く面もあるのではないでしょうか。

聖書も誇りについて語っています。特にこのローマ書も含めてパウロが書いた手紙には大変多く出てくるというか、そのほとんどがパウロの手紙にしか出てこない言葉でもあります。ということはパウロにとって、また彼の信仰理解にとってこの誇りという言葉は重要な意味をもっているということでもあります。ただこの誇りについても、一般のわたしたちの世界で受け取られているように二つの面があり、その二つの誇りはもっと厳しく対立しています。その一つが冒頭の言葉から始まっています。「では、人の誇りはどこにあるのか」。ここで言う誇りは信仰における人間の誇りであり、神からの救いは自分の努力によって大きく左右されると思うところから来るものでした。しかしそれは間違った誇りです。「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」とパウロが語るのはそれゆえのことです。なぜなら人間は例外なく皆羊のように迷い、神に対しても人に対しても罪を犯し、敵対した関係にあるからです。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」と語る通りです(3.20)。

けれどもすべての人がそう考えていたわけではありませんでした。律法の実行によって義を得る道を追い求めていた人々がいたからです。それはユダヤ人であり、とりわけパウロも含めたファリサイ派の人々でした。パウロはキリストの信仰に出会う前は、「律法から生じる自分の義」を懸命に負い求めていました。彼はキリストを誇りとする前は、自分の肉に頼り、それを誇りとして生きていたのです。パウロはそのようなかつての自分を次のように述べています。「とはいえ、肉に頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファイサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころない者でした」(フィリピ3.4以降)。この言葉からパウロが自分の出自やこれまでの歩みをいかに誇りとしていたか、それゆえにそれと決別するのがいかに困難であったかが分かるのではないかと思います。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」と次に続くのですが、それは今日の冒頭の言葉「では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました」と共通するものでもあります。信仰の恵みを得るためには何を捨て去るのか、パウロにとってはこうした肉との戦いが(その戦いは今も続いているのですが)、いかに激しかったかを物語っていますし、同時にそれを超えて余りあるキリストの恵みの大きさをも示しているのではないでしょうか。

こうした自分の力、行いによって得られると考える義、それは当然信仰者をうぬぼれへと導きます。その誇りは人間に高慢や思い上がりを生じさせ、それが神への信仰と隣人との関係を乱します。「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう」と語るのはそれを戒めたものです(ガラテヤ5.26)。またそこからこのような勧めがなされるのも理由のあることです。「わたしたちに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです」(ローマ12.3)。

「では、人の誇りはどこにあるのか」。「それは取り除かれました」と言います。なぜなら人が義とされるのは、わたしたちが救われるのは、人間の働きや行いによるのではなく、ただキリストによって上から与えられる信仰によるものだからです。それを今日の一番重要な箇所である28節でパウロが断言しています。「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです」。こんなエピソードを紹介したいと思います。宗教改革時の1522年、マルチン・ルターは自ら聖書をドイツ語に翻訳しました。その中でここの「信仰による」という箇所を「信仰のみよる」と「のみ」を加えました。当時の絶対的なカトリック体制を前にして、宗教改革者たちのスローガンは、「聖書のみ、信仰のみ、恵みのみ」というものでした。それは聖書と共に伝統も大切、信仰も重要だが共に行いも大切、を強調してきたカトリック当局に対しては、このように「のみ」という言葉をもって自分たちの立場をいっそう峻別する必要があったからです。聖書翻訳としては原文にない「のみ」を入れることはふさわしくありませんが、以来ルター訳聖書では今日に至る改訂版でもこのように「のみ」を取り去ることなく入れているのです。そこに宗教改革の先頭を切ったルターとその後を継承するルター派の気迫を感じます。

このようにイエス・キリストの信仰による義が与えられたことによって、人間の誤った誇りは消え去りました。それならばわたしたちにはもう誇りとするものはなくなったのでしょうか。そうではありません。人間の誇り、はかないこの世の肉の誇りの代わりに新たな誇りが与えられたからです。それがキリストの誇りであり、誇る者は自分ではなく主を誇るというものです。神の栄光にあずかる希望の誇りと言ってもよいでしょう。やはりパウロについてですが、彼には慢性的な病があり、それに苦しんできました。彼はそれを「とげ」と呼び、「サタンから送られた使い」とも呼び、それが癒されるのを必死に祈ってきました。ところがそこから主の言葉を新たに聞くことになりました。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と。そこでパウロは気づき、こう確信するのでした。「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(2コリント12.7以降)。わたしたち自身から得る誇りではなく、そのような自分から目を離して、主イエス・キリストがわたしのために与えてくださったものに目を留めるときに、そこからまことの変わることのない誇りが与えられるのです。それを今わたしたちは与えられたのであり、今持っているのです。