マタイによる福音書6.25~34 (2019.8.18) 

2019年度のCS夏期学校も、この朝をもって無事終了しました。このために仕えたCS教師の働きは並大抵のものではありませんでした。何回も準備の打ち合わせを重ね、12日にわたる活動の内容を詰めていきます。参加する子どもたちも募らなくてはなりません。一人でも多くの参加者を得るためには、送り出すご家族の信頼は欠くことができません。外から招く講師との交渉もありました。その他さまざまな準備が求められ、そのためにはCS教師はもちろん、教会員の支えもありました。それは具体的な手助けであり、また背後の祈りもあったことと思います。そのようにしてこの夏の重要な教会の活動である夏期学校を、恵みのうちに終えることができました。願わくば、参加した子どもたちがこうした体験を通して、神さまの愛と導きを知り、これからの成長につながっていくようにと祈るものであります。

この朝はマタイによる福音書から「山上の説教」の一つを取り上げました。多くの人々が山の上で腰を下ろしてイエスの話を聞いていました。そこで語られた一節で、小見出しのタイトルとしては「思い悩むな」と書かれています。わたしたち人間はあれこれと思い悩みます。2000年前のイエスの時代の人々も、現代の人々も変わりありません。またどの国の人々であっても同じでしょう。生活のこと、自分や家族の病気の心配、現在のような子どもの進学の悩みは昔の人々にはなかったかもしれませんが、それに似たようなことはあったでしょうし、その他のことではほとんど同じような悩みを抱えていたのではないでしょうか。

そうした人々に向かってイエスは言われました。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」とは、わたしたちの生活の一番基本となるものです。ここからもっと広げていけば、仕事のこと、収入のこと、先程の健康や病気のこと、学業のこともここに含んでよいでしょう。人間関係の悩みもここに入り、つまり地上の生活のすべての心配事が、この食べること、飲むこと、着ることに代表されているといってよいと思います。そしてそれらについてああでもない、こうでもないと思い悩んでいるのが現実のわたしたちの姿なのです。それはたとえ恵まれた生活であっても、人間はいつでも思い悩むものなのです。

そのときイエスは空の鳥を指し示されました。そして言われたのです。「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか」。これは「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩む者への贈る言葉です。さらに「何を着ようか」と思い煩う者に対して言われました。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」。ソロモンとはイスラエルの最も勢いのあった時代の王の一人のことですが、その王でさえいま目の前に咲いている野の花ほどは着飾ってはいなかったというのです。はかない命の野の花でさえ神は着飾ってくださっているのだから、あなたがた人間にはなおさらのことではないかと言われるのです。そのようにみますと、自然は神について、信仰について、いろいろなことを教えてくれます。自然観察といっても理科の勉強だけでなく、信仰の立派な手引きでもあるのです。

わたしたちが現在思い悩んでいる、すなわち「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」といった生活の気遣いに対して、その元となる自分の命、自分の体についてはどれほど心を留めているでしょうか。自分の命あっての食べ物、飲み物、自分の体あっての着る物であるにもかかわらず、その命、その体に対してどれだけ心を向けているでしょうか。わたしたちの命、体をイエスは「寿命」とも言い、次のように言われました。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(27節)。もし思い悩むことによって寿命が延びるなら、これからもどんどん寿命は延びるでしょうが、実際はそうしたストレスは寿命を縮めているのではないでしょか。今日では平均年齢が80歳台、また人生百年の時代が来ているとも言われています。それは高度な医療や保健衛生等のお陰でもありますが、しかしいつまでも生きるわけではありません。結局、わたしたちの命は、寿命は、自分ではどうすることもできないものなのであり、それを別の言葉で言い換えれば、神が命を与えておられるということです。その神が与えてくださった命、体、寿命を無感動に、感謝なしに受け止めながら、その上に着飾るものとして「何を着ようか」、それを維持するために「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩むのは、まさに逆さま、すなわち本末転倒ではないでしょうか。

そこでイエスは言われます。「だから『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」。そしてこう宣言します。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」。この「まず」という言葉は、「第一に」という意味です。第二番目とか三番目ではなく、一番最初にということです。それが「神の国と神の義」、すなわち神さまに目を向けることなのです。食べること、飲むこと、着ること、そうした生活の気遣い、それは仕事に励む、勉強に精を出すといったことでもあり、もちろんそれは人間としてしなければならないこと、尊いことではありますが、しかし第一のことは神さまに目を向けること、神さまへの信仰と感謝なのです。「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言われました。「これらのもの」とは今わたしたちが思い悩んでいることどもです。それらがみな加えて与えられる、言い方は少し変かもしれませんが、あたかもおまけのように添えて与えられるということです。

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」。そのように「思い悩むな」と言われたとき、それはくよくよしてはいけません。もっと性格的に明るく、前向きに生きなさいということを言われたのではありません。もちろんわたしたちの中には性格的にわりと楽天的な人、反対にくよくよする人とさまざまです。それが思い煩いを左右する面はあるかもしれません。しかしここでイエスは性格の改善を主張しておられるのではありません。そうではなく神さまに目を向けること、神さまを信じることの大切さを述べておられるのです。今わたしたちが第一番目にもってきていることを、第二番目以降に置き、代わりに神の国と義を第一番目に置くということです。そのとき、ちょうど鳥や野の花のようにわたしたちが神から養われていることに気づくのではないでしょうか。思い悩む、それは性格の問題ではなく、信仰の事柄なのです。