ローマの信徒への手紙4.13~25 (2019.9.8) 

わたしたちが旧約聖書を読むとき、まず何よりも旧約聖書独自の歴史を調べながら、そこから直接何が語られているかを知ろうとします。水曜日の聖書研究会で行っていることです。そうした読み方と並んで、新約聖書、具体的にはイエス・キリストの救いの出来事から、逆に旧約聖書、そこに出てくる人物を解釈する方法もあります。旧約聖書がキリストを預言したものとする読み方であり、これはすでに新約聖書のパウロを初めとした著者が試みていることです。創世記や詩編やイザヤ書の言葉や人物を引き合いに出し、それは救い主イエス・キリストを指し示したものだとする読み方です。たとえばイエスはユダヤ人を前にこんなことを言われました。「『あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである』。ユダヤ人たちが、『あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」(ヨハネ8.56以降)。これなども救い主イエス・キリストの出来事から、逆に旧約聖書、そこに出てくる人物を解釈したものといえます。

そのアブラハム、彼の生涯とはどのようなものだったのでしょうか。創世記を読みますと、彼には幾つかの試練がありました。その一つに子どもを望んでいたにもかかわらず与えられなかったことがありました。そのため家庭にごたごたが生じています。そのようなアブラハムが主なる神から「わたしはあなたを多くの民の父と定めた」との約束の言葉を聞きました。この言葉をどのように受けとめるかも、また彼の試練となりました。というのはアブラハムの年齢はおよそ百歳になっていましたし、妻のサラも同様に年老いていたからです。今さら自分たちに子どもが与えられるなんて、という思いだったのです。そうした疑いが旧約聖書には笑いとして出てきます。この子どもが与えられるという約束の言葉を聞いたとき、アブラハムは笑ったと書かれています。妻のサラもひそかに笑いました。笑いにはいろいろな笑いがありますが、この笑いとはどのような笑いでしょうか。落語を聞いておもしろくて笑ったというような笑いではありません。神の約束の言葉にひれ伏しながらひそかに笑ったというのは、これはシニカルな笑いではないでしょうか。不謹慎かもしれないが、そんな馬鹿なことがあるものかと、その約束に距離を置くような冷めた態度です。このような反応は現代のわたしたちにも理解できるものであり、ある意味では常識的、この世的な反応であると言ってよいと思います。それでも最終的には、パウロが20節で述べているように、「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました」。

それはまた別の言葉で言えば、18節にありますように、「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」たということでもあります。希望(エルピス)は聖書でも力を持った言葉です。いつまでも残るものは信仰と、希望と、愛の三つであるというのは、中でも有名な言葉です(1コリント13章)。ここに希望が二つ並んでいます。しかしその希望の中身は違っています。アブラハムは「希望するすべもなかったときに」、その最初の希望は、この世的な希望、肉的な希望でしょう。確かに高齢の夫婦にとっては、そうした希望はついえていました。それにもかかわらずなおも「望み」を抱いて信じました。その二つ目の希望は、上から来る希望、神の約束の希望です(だから希望ではなく望みと言い換えたのかもしれません)。これがアブラハムを支え、またわたしたちをも生かすのです。地上の希望は不安定で、どこかで必ず行き詰ります。けれども上から恵みとして与えられる希望はいつまでも残ります。ヘブライ人への手紙の中にこうあります。「こうして、アブラハムは根気よく待って、約束のものを得たのです」。それは同じように信仰から来る希望に支えられてのことだったからです。

最近発行された書物で、ドイツの現首相アンゲラ・メルケルさんの「わたしの信仰」という本があります。その中で聖書のある奇跡物語について語るところがあります。彼女は自分が物理学を学んだときは、すべては何らかの方法で説明可能だと信じていたと語っています。しかし今では人はすべてを説明することはできないと言っています。長い政治生活、難しい立場での仕事をしてきた中で教えられたことは、「ありがたいことに、人はすべてを説明することができない!」と言えるようになったことだと述べています。分からないことを大切にするということでもあります。こう述べています。「説明のできないこと、説明したくないこと、説明をゆるされないことがあるということ。それによってわたしたちには、他者をありのままに受け入れる責任が与えられるのです。そのようにして、わたしたちは謙虚な気持ちを持てるのです。謙虚とは無気力な態度ではなく、限界を知ったことから生まれるポジティブで、希望に溢れて生を形成する感覚です」。そういえばテレビのニュースに出るメルケルさんを見ていていますと、派手な言動が多い他の政治家に対し、彼女はいつも静かで控えめに映ります。しかしその控えめは自信のなさではなく、反対に自らの限界を知ったところから来る、深い確信に満ちた意志の表れのように見えます。そしてそれはまさに信仰が生み出すものだったのです。

信仰によって義とされたアブラハム、約束に生きた人、その信仰と祝福は今キリスト・イエスを信じる信仰者にも同様に臨みます(23節以降)。「しかし、『それが彼の義と認められた』という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのではなく、わたしたちのためにも記されているのです」。それはどういうことでしょうか。さらにパウロは続けます。「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます」。信仰の義、この聖書が示す大いなる賜物、神が与えてくださる恵みは、旧約聖書の偉大な人物アブラハムに与えられたと同じように、新約の教会に生きるわたしたちにも与えられているのであり、その意味では旧約と新約が分かちがたく一つの救済の歴史として統一されています。しかしその信仰による義はアブラハムのそれと並行しつつ、さらにいっそう豊かなものへと変えられていきました。それがイエス・キリストを信じる信仰の義なのです。それを今日の最後でパウロはこう結びます。「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」。神の約束を信じ、希望するすべもなかったにもかかわらず、それでもなお希望を抱いて信じたアブラハムの義は、今イエス・キリストの罪の赦しの十字架と復活によって認められる究極的な義に置き換えられ、そのことがいっそうアブラハムの信仰を豊かにしていくものとなりました。わたしたちも同じように、この希望によって生かされています。約束を信じて生きるようにと導かれています。たとえどのような試練に遭遇したとしても、わたしたちは主イエスの恵みによって受け入れられているのであり、認められている・肯定されていることを忘れないようにしたいと思います。