ローマの信徒への手紙5.1~11 (2019.9.15) 

この朝の宣教のタイトル「希望は欺かない」は5節から取りました。前の口語訳聖書では「希望は失望に終わることはない」と訳しています。その希望という言葉でわたしが思い浮かべたものの一つは、ギリシア神話の「パンドラの箱」でした。あらゆる災いが中に入っていた小箱、これをパンドラが開いたため不幸がいっせいに飛び出したのであわてて蓋をしたところ、中には希望だけが残ったという話です。他にも別の説があると言われていますが、今でもこの神話はけっこう引用されています。

希望で有名なのは聖書も負けてはいません。その最たるものは1コリント13章であるといってよいと思います。「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13節)。ローマ書も今日の5章に入りますと、その三つのうちの一つ、しかも最も大いなるものである愛が初めて登場します(58節)。これまで信仰と希望は出ていましたので、今日の箇所でその三つがそろったということです。相撲ではありませんが、三役そろい踏みがここ5章で実現しているのです。

ならば聖書の語る希望はどのような希望なのでしょうか。冒頭でこう語られています。「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。「神の栄光にあずかる希望」、しかしその後に奇異に感じる言葉が続きます。こうです、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むというということを」。聖書の語る希望は、なんと遠くにあるのだろうと皆さんは思いませんか。いきなり希望ではなく、そこへ到達する前にまず苦難が語られます。これも希望とは相容れないような言葉ですが、一応それを我慢したとしても、その後に希望が続くわけではありません。さらに忍耐を経なくてはなりません。そしてさらに練達があります。これではまるでスポーツ選手の練習の合宿場に貼られているような言葉です。そのような過程を経て、その後にやっと希望に到達するという、そのような希望を聖書は示しているのです。

そもそも希望の入口にどうして苦難が語られるのでしょうか。先週久々に再開した金曜聖書研究会では、ルカ福音書の「平地の説教」の一節を読みました。その中でイエスの言葉を聞いて行う人と聞いても行わない人が語られ、一方は岩を土台として家を建てた人、他方は土台なしに家を建てた人と言われました。洪水になって水が押し寄せたとき、土台のしっかりしている家は持ちこたえたのですが、そうでない家はたちまち倒れ流されてしまったという話です(ルカ6.46以降)。信仰があれば洪水が押し寄せない、苦難が臨まない。もし苦難があるようならそれは正しい宗教ではない、それはご利益信仰です。聖書は信仰者にも同じように苦難がおとずれると語ります。ただそこで他の宗教と違うのは、その苦難にあっても信仰者は倒れないということです。

パウロ自身、自らの生涯において数多くの苦難を経験しています。2コリント11章を見ますと、そこには投獄されたこと、鞭打たれたこと、石を投げつけられたこと、難船したこと、盗賊にあったことなど、自分の肉体に危害が加わる多くの苦難を語っています。それだけでなく日々自分に迫るやっかい事や心配事といった精神的な悩みもあったと記しています。それでもそうした苦難が苦難だけで終わってしまうのではなく、それらが忍耐を生みだし、忍耐は練達を、そして練達は希望を生むことを教えるのでした。しかも「希望はわたしたちを欺くことはありません」。なぜならその希望は上から、神から与えられたものであり、人間に基づくものではないからです。「神の栄光にあずかる希望」、その希望を支えるものとして、次のようなすばらしい言葉が語られます。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。

ここで初めて愛(アガペー)、神の愛が出てきました。それではこの聖書の語る愛とはどのような愛なのでしょうか。「アイ ラブ ユー」と神がやさしく語ってくださることを言うのでしょうか。そうではなく神の愛は行動を伴ったものであり、具体的には独り子イエスの死を通してあらわされたものです。聖書の示す愛は、罪の赦し、贖罪の愛なのです。8節でこう述べています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。「この人のためなら死んでもよい」、「正義のためなら」、「国を守るためなら死んでもよい」。実際そのような死はこれまでにありました。けれども自分の命を犠牲にするに価値のない者のために、しかもその人間は罪人であり、神の敵でさえあるにもかかわらず、そのようなわたしたちのために十字架にて死んでくださった、その罪の赦しの死こそ神の愛でした。

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」。ここ5章に入って初めて愛という言葉が出てきましたが、もう一つこの和解という言葉も初めてです。カール・バルトという神学者はこの「和解論」というタイトルで膨大な書物を著しています。この書物を構成するものとして、今日の箇所にもある信仰、愛、希望が重要な柱となっています。和解というのは義とされることを別の側面からあらわしたものですが、本来神と人間とは敵対関係にあったにもかかわらず、神の側から御子を差し出して和をもたらしてくださったというものです。それは今日の冒頭に神との間に平和を得ているという言葉がありますが、それと深く関係しています。その和解はキリストの死によって実現したのでした。それを別の箇所で次のようにパウロはまとめています。「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです…キリストに代ってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって、神の義を得ることができたのです」(2コリント5.19以降)。このような世界が他にあるでしょうか。わたしたち人間の破れや弱さ、本性からの腐敗にもかかわらず、そのような者のために神は独り子の尊い命を与えてくださいました。それこそが神の愛であり、わたしたちの義、和解でもありました。もはやわたしたちは神に敵対する者ではなく、神との間に平和を得ているのです。今もさまざまな問題に悩まされ、これから先のことにも不安を抱えているわたしたちではありますが、しかしいかなる苦難の中にあろうとも、それが忍耐、練達を経て希望へとつながる産みの苦しみであることを忘れないようにしたいと思います。なぜならその希望は人間的な不安定な希望ではなく、尊い御子キリストによって支えられたものであり、決してわたしたちを欺くことがないからです。