ローマの信徒への手紙5.12~21 (2019.9.29) 

今日の聖書に出てきますアダムという名前、これはヘブライ語をそのままカタカナにした言葉です。この名前は現代でも欧米ではよく用いられています。アダム、あるいはアダムズなどのようにです。旧約聖書はほとんどがヘブライ語で書かれていまして、そこにはアダムという言葉が優に500を超すほどの回数で出てきます。ただそれらがすべてアダムと訳されているわけではありません。アダムというヘブライ語は、人(人間)という普通名詞なのです。だから旧約聖書ではほとんどが「人」として訳されています。アダムという、あの創世記に出てくる固有の名前として出てくるのはほんのわずかです。具体的にはエバの夫として創世記の3章からアダムが登場し、いわゆる神との約束に背いて罪を犯した人としてほんのわずか出てくるだけなのです。

今日の聖書の冒頭には、そのアダムのことが書かれています。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」。この「一人の人」こそ、すなわちアダムなのです。いったいアダムによってもたらされた罪とはどのようなものだったのでしょうか。またその結果として入り込んだ死とは…。これは創世記3章に記されている出来事を背景としたもので、一般に原罪と呼ばれているものです。主なる神がアダムに言われました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。これが神の戒めであり、アダムが守るべき約束の言葉でした。ところが狡猾な蛇が、その善悪の知識の木に手を出すよう誘惑いたします。こう言いました。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。その誘惑の言葉に負けて、アダムとエバはその実を食べてしまいました。これが大きな罪となり、罪の始まりとなりました。

その結果どうなったかといいますと、彼らは神の顔を避けて生きるようになりました。さらには、彼らはそれまでは裸だったのですが、それ以来いちじくの葉で腰を覆うようになったと書かれています。これもまた意味深長な描写です。彼らはそれまでと違って、隠し事なしに生きることができなくなったというように多くは解釈されてきました。虚栄虚飾に覆われた人間の偽りの姿であり、それが夫婦を、また人間社会を覆ったというものです。さらにはアダムとエバが互いに非難し合い、自らの過ちの責任をなすりつけあいます。そして最後の主なる神の言葉、「お前は顔に汗を流してパンを得る 土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」との呪いの言葉で閉じられます。

「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」。この一人の人とはアダムであり、そこからもたらされた罪と死なのです。確かにアダムの犯した罪と死は、現代のわたしたちをも支配しているのではないでしょうか。自分を神のようにとまでは思わないまでも、少なくとも神を必要とせず、自分の力、人間が最高の力ある存在として自由に振る舞っているのがこの現実の世界です。今まさに問題となっている環境破壊、あくなき貪欲による資源の奪い合い、それによって力のない者、力の弱い国の人々が窮地に立たされている現状を思うとき、わたしたち近代人も依然としてアダムの子孫であり、罪と死の支配下にあることを思わされます。

それに対して、ここにもう一人の人が出てきました。それがイエス・キリストです。パウロは15節で次のように述べています。「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです」。一方の一人の人、すなわちアダム、そしてもう一方の一人の人としてイエス・キリストがここで対になって語られています。二人は向き合った者として対照的に述べられています。ただそのように形式的には対になっていますが、内容においては正反対、対立した、そのような対でもあります。一方の人アダムからは罪と死がもたらされた。それに対してもう一人の人イエス・キリストからは恵みと義の賜物が与えられました。このように相対立した対なのですが、さらに双方の影響力、力の大きさは比べようもありませんでした。それは「なおさら」という言葉で言い表されています。たとえば今の15節もそうですが、17節「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです」と繰り返されているようにです。

実はこのアダムとキリストの関係は、1コリント15章でも豊かに展開されています。そこではイエス・キリストを第二のアダム、最後のアダムと呼んでいます。キリストは第二のアダム、最後のアダムなのです。そしてこう比較して述べています。「最初の人(アダム)は土ででき、地に属する者であり、第二の人(キリスト)は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちは、天に属するその人に等しいのです」(47節)。もちろん言うまでもなく、わたしたちは第二のアダム、すなわちイエス・キリストに属する者として生きるよう導かれています。キリストにある人はだれでも新しい創造なのです。創世記における最初の創造、その古いものは過ぎ去り、新しいものがキリスト・イエスにあって生じたからです(2コリント5.17)。

わたしたちの世界にはいろいろな違いがあります。アジア人とアフリカ人、富める国に属する者と発展途上国に属する者、もっと身近なところでは男と女に代表される性の違い、高齢者と元気な若者、健康な人と障碍を抱えている人、今順調に歩んでいる人と逆境にある人というようにさまざまです。けれどもそうした違いの中にあって、またそうした違いを超えてわたしたちを深く、大きく覆っているものは、アダムに属する者であるか、あるいは最後のアダムとしてのイエス・キリストに属する者であるかなのです。そして感謝することに、わたしたちはもはや古いアダムの子として生きているのではなく、新しいアダム、すなわちわたしたちの罪と死をご自身の十字架において打ち滅ぼしてくださった方イエス・キリストにある者として生きることが許されているということなのです。それを今日の聖書の最後でパウロはこう結んでいます。「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」。これこそが今のわたしたちを支えるものであり、わたしたちが変わっても(また実際に変わりつつある)このキリストによって与えられた義と命はこれからも決して変わることがありません。