ローマの信徒への手紙6.1~14 (2019.10.6)   

今賛美した讃美歌(21-69)は、洗礼というタイトルで歌われたものです。これは「こどもさんびか」にも入っています。そしてこの讃美歌を歌いますと、洗礼とは何かについて大切なことが歌詞に記されていることが分かります。わたしは洗礼を希望する人のために開く洗礼準備会では、必ずこの洗礼について幾つかのことを語ります。それはわたしだけでなく、洗礼を授ける牧師であれば当然の務めでもあります。当事者がまさにこれから受けようとする洗礼とは何かを教えるのは当たり前のことだからです。洗礼とは何ですか、それはバプテスマのことです。これでは答えになっていません。「お母さん、わたしも洗礼を受けたいけど、それについてもう少し教えてくれない?」と聞かれた場合どう答えるのでしょうか。うまく説明することはけっこうむずかしいのではないでしょうか。この洗礼と共に、もう一つの聖礼典である聖餐式についても教えます。そして洗礼は生涯に一度だけ受けるのに対し、聖餐式は生涯にわたってあずかり続けることも、合わせて大切なこととして語ります。実は今日の箇所では洗礼とは何かを語ってはいますが、聖餐式について語られているわけではありません。ただこの一度だけの洗礼と生涯あずかり続ける聖餐との関係、すなわち信仰者の生涯について述べられています。

わたしたちが受けた洗礼とは、またこれから受けようとしている人にとっての洗礼とはどのような意味があるのでしょうか。それを3節の2行目以降でパウロは次のように述べています。「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、その死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。ここから分かることは、わたしたちが受ける洗礼とは、イエス・キリストの十字架とその死からの甦りが深く関係しているということです。主イエスは罪とは何のかかわりもない方であったにもかかわらず、わたしたち人間の罪を背負うために十字架の死につかれました。しかしそれだけで終わってしまったのではなく、その死の墓から復活されました。それが福音書に記されているメッセージであり、これはキリストの教会において一番の基礎となっていくのです。

わたしたちがそのキリストの救いの御業を信じて洗礼を受けるということは、さらにわたし自身もまたそのキリストと共に死んだということであり、そしてまたそのキリストと共に新しい命へと甦ったということなのです。別の言葉で言い換えれば、それまでの罪と自分中心に生きてきた古い自分が洗礼によって葬られたということです。キリストの十字架の死と共にです。そしてイースターの朝、キリストが死の墓から甦られてわたしたちに希望を与えてくださったように、わたしたちもまた洗礼において終末の復活というだけでなく、今ここで洗礼を通して、もはやそれまでの自分ではなく新しいキリストにある命に導かれて生きるようになったのです。だからわたしはよく受洗志願者に、洗礼というのは自分のお葬式であり、また自分の誕生日であるもあると言ったりしています。お葬式というのは、それまでの古い自分と決別したことであり、誕生とはもちろん新しい命に生きるということです。そして人間が誕生したならば、それからが新たな始まりであり、成長していくものです。同じように洗礼を受けたならば、それで終わりなのではなく、まさにその翌日から新しい課題、新しい命の成長が始まるのです。

そこで次へと続きます。「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うことがあってはなりません」。これが課題であり、信仰者の成長につながる勧めです。一度の洗礼によってキリストと共に古い自分に死に、新しくされた。だからそのように生きなさいというものです。そういう意味では、信仰者もまた旅する途上の人です。確かにわたしたちは洗礼を受けた後においても、自らの不完全さや弱さの中にあっていろいろと困難を抱えていくものです。肉の弱さにあって疲れを覚えることがあります。それにもかかわらずわたしたちは洗礼において、すでに新しい命に生きているのです。すでに神の恵みの下に生かされているのです。そうした中での途上の人であることを忘れてはなりません。

わたしは牧師という務めがら、高齢者施設を訪れる機会が多くあります。そこで多く目にすることは、女性の入所者は一応皆と集まってお茶を飲みながら輪を作っているのですが、男性は一人ぽつんと座っている姿です。相対的に男性入居者が少ないこともあるのかもしれませんが、何となく将来の自分をも見るようで寂しい感じがします。これに関してあるキリスト教経営の高齢者ホームの施設長から話を聞いたことがあります。男性はそれまでの社会での経歴や地位を引きずる傾向にあるそうです。特に先生と呼ばれる職業の人はむずかしいとも言われていました。中でも牧師です。施設では皆平等に「…さん」で呼ぶのですが、牧師は先生と呼ばれなければ返事もしない、ベッドで背中を向けてしまうというようなことを言っていました。自分に素直になること、謙虚に交わりの中に入って雑談を楽しむといったこと。決して大きなことではありませんせんが、その時々の自分が置かれた場所において、信仰者として、洗礼を受けた者として生きるということには、さまざまな課題があるのです。

「あなたがたの五体を不義の武具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」と勧められています。これがわたしたちに与えられて課題であり、恵みにおける目標でもあります。そのために礼拝の中で育てられ、聖餐の恵みにあずかり続けるのです。そこで罪の赦し、悔い改め、感謝、希望という福音のメッセージに触れながら、再び勇気を与えられて歩んでいくのです。ただ一度の洗礼によって義とされ、キリストと共に死に、またキリストと共に生きるようになりました。だからその恵みの下にあって、少しずつわたしたちは成長していきます。それを支えるのが今ここで守っている礼拝であり、その中で行われるもう一つの聖礼典である聖餐でもあるのです。