創世記3.1~19 (2019.11.3) 

今日の箇所、創世記3章に入りますと、アダムとエバの罪による楽園喪失、すなわち失楽園の物語となります。聖書に原罪という言葉は出てこなくて、それは後の神学者が作った言葉なのですが、ただしその意味するものは出てきます。それが今日の箇所です。考えてみれば聖書の歴史というのは、ほとんどが罪の下にある人間の歴史だといえます。創世記1章で人は「神のかたち」として造られ、神は「極めて良かった」とその完成された創造を祝福されました。次の2章では「人が独りでいるのは良くない」ということから、神は「彼に合う助ける者」を造られました(18節)。それをアダムは喜び、「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉」とまで言って女エバを迎えました。それが2章までの記事で、ここまでが神によって造られた人間本来の姿だといえます。それは神に対して、そして人(隣人)に対して信頼と愛をもって接することができた世界です。

ところが今日の3章に入ると、もうそのような信頼の関係は失われ、一挙に人間の堕落が始まります。この3章の出来事が、原罪と呼ばれるものです。これを聖書全体から見てみますと、わたしたちの手にしている新共同訳聖書では旧約聖書は全体で1502ページあります。しかも上下2段で印刷してありますから、1段組みにしますと全部で3000ページになるという膨大な書物です。その中で人間が神のかたちによって造られたという本来の姿を維持したのは、そのうちのたった2章、ページでいえばわずか3ページに過ぎません。ということは、旧約聖書の歴史というのはほとんどが罪の下で混乱し、苦悩する人間の歴史だということです。その中で神は様々な救済、具体的には律法や契約といった恵みをもって救いの御手を差し伸べてきたのですが、最終的には旧約最後の書物、マラキ書が救い主に先立って歩む者を指し示すことによって閉じられています。そして新約のイエス・キリストへとつながっていくのです。

ならば旧約聖書に語られている人間の不信仰や乱れ、それらと関係する様々な争いのもととなる原罪とはどのようなものだったのでしょうか。それはこんな言葉から始まります。「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった」。この賢さは聡明という意味でもありますし、反面のずる賢いという意味もあります。イエスは弟子たちに対して、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われました(マタイ10.16)。これは良い意味です。反対の意味としては、前の口語訳聖書がここで「狡猾」という言葉を用いています。このように両面があるようです。この蛇はサタンとの関係で捉えられてもきました。それでもこの蛇とて、神によって造られた生き物の一つであったということです。その蛇が女に向かって言うのでした。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。実はこの言葉は、前の章の16-17節に対応するものです。神は人をエデンの園に住まわせ、次のように言われました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。今日の冒頭の蛇の言葉は、それを受けたものです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。しかしこの蛇の言葉、正確な神の言葉ではありません。神は「園のすべての木から取って食べなさい」と圧倒的に大きな自由をアダムに与えているのであって、その次に「ただし」と守るべき限界(律法)を示されたに過ぎません。ところが蛇は「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と、アダムが圧倒的に大きな不自由の中に生きているように語るのでした。ここにすでに蛇の第一の誘惑があるのではないでしょうか。

それに対して女は神の言葉を反復するのでした。ところが次です。蛇は言いました。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ」。この言葉を耳にしたとき、女はそれまでの状態を保つことができなくなりました。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」。「唆していた」、新共同訳聖書はずいぶん刺激的な言葉を用いています。木の実は昨日も今日も変わっていません。また女のほうでも昨日も、1週間前も何ら変わることなく平静な気持ちで木を見ることができました。ところがこの蛇の言葉を聞いてからは、もうそのように穏やかに木を見ることができなくなってしまいました。注目したいことは、これはまだ木の実を食べる前のことです。言い換えれば、神のかたちとしての人間、原罪という罪を犯す前の状態です。それにもかかわらずこれほど人間の精神は脆弱であり、信仰が脆いことを示しています。アウグスティヌスがこう嘆いています。「ああ、惨めな自由意志よ。無傷だったときでさえ、こんなにも不安定であったとは」。そのように少しでも神から目を離して、自分だけで生きようとすると、世界はまったく別のものへと変わってしまうということではないでしょうか。

その結果、女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡しました。すると二人の目が開け、自分たちが裸であることを知りました。これが原罪であり、死の始まりでもありました。ここに二人が禁断の実を食べたとき、目が開けたとあります。通常わたしたちが理解する目が開けるとは、良い意味で用いられます。エマオに向かって歩く二人の弟子たちは目が開けたとき、自分たちの前におられるのが復活のイエスであると分かりました(ルカ24.31)。しかしそればかりではありません。イエスが生まれつきの盲人を癒された後、ファリサイ派の人々と論争をします。その中で次のように言われました。「こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。そこでファリサイ派の人々が言いました。「我々も見えないということか」。イエスは言われます。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」(ヨハネ9.39以降)。

ここでアダムとエバが見えることによって何を得たのでしょうか。むしろそれによって何を失ったのかを指摘したほうがよいのかもしれません。彼らはそれ以来、神の顔を避けて生きるようになりました。さらには罪を問われたときに、二人は互いに責任のなすり合いをしました。アダムは女が木の実を与えたので自分も食べたと、責任を女になすりつけます。「これこそわたしの骨の骨、肉の肉」と言ったのはそんなに前のことではありませんでした。最も身近な隣人、そんな人間関係の裏切りです。エバはエバで、蛇がだましたので食べましたと、彼女もまた言い訳をします。責任転嫁です。これは今日でもわたしたちの生活に大変多く見られる醜い面、弱点ではないでしょうか。そして次の4章に入りますと殺人が起こります。しかも家族の中で、兄弟間においてです。

この3章に向き合うのが、またこの3章の原罪への答えが、新約聖書におけるイエス・キリストにほかなりません。それを使徒パウロは次のように述べています。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(1コリント15.21-22)。わたしたちは今旧約聖書を読みながら、人間のさまざまな破れや苦悩を見、そこに神は救いの御手を差し伸べてくださっていること、最終的には救い主イエス・キリストが遣わされることを待ち望みながら歩んでいくのです。