ルカによる福音書12.13~21 (2019.11.10)   

今日はわたしたちの教会が一年に二回行っています、子どもと大人一緒の合同礼拝です。子どもが一番前に座って、周りを囲むようにして大人が一緒に座って神さまのお話を聞く、それはイエスさまの時代も同じことでした。イエスさまも子どもが大好きでした。お弟子たちたちが子どもは来てはいけませんと注意したときにも、子どもをみんなの真ん中に連れて来て、抱き上げ、祝福のお祈りをいたしました。それほど愛しておられたのです。

その合同礼拝の朝、イエスさまは「愚かな金持ち」のお話をされました。これはそのときの子どもたちも一緒に聞いていたと思います。あるときイエスさまの周りで、お金のことでけんかをしている人たちがいました。それは一人の人が亡くなり、残した財産(遺産)の分け方で争っていたのです。自分がもっとほしい、いや自分こそもっと多くもらえる権利があるといたような争いだったのでしょうか。その相談を受けてイエスさまは次のようにお話しになりました。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」というお話です。貪欲とは欲張りのことです。それに気をつけないと、人間は過ちを犯し自分をダメにしてしまいますよというものでした。そこでこのようなたとえの話をされました。ある金持ちの畑が豊作となりました。その男はその収穫物をしまっておく場所に困りました。それまで使っていた倉では、入りきらなくなってしまったからです。そこで自分の心に向かってこう語りかけました。「どうしよう、わしの作物をしまっておく場所がない」。こう言って男はいろいろ思い巡らした結果、「そうだ、こうしよう。わしの倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこにわしの穀物や財産をみなしまっておこう。そして自分の魂にこう言い聞かせるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』」。男はこう言って満足していたのでしょう。ところがその男に対し、神さまは言われました。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったいだれのものになるのか」。なんと男はその夜に死んでしまいました。あれだけ大きな倉を作り、貯めておいた食べ物や財産があったにもかかわらす、それを使うことなく、残したまま死んでしまったのです。このようなことを話し終えてから、イエスさまは言われました。「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」。

毎年暮れになりますと、その年の流行語が選ばれています。今年はラグビーのワールドカップが日本で開かれましたので、そんなところからいろいろな言葉が候補にあがっているようです。ついこの間には「おもてない」という日本の言葉が世界に広まりました。今日のイエスさまのお話を聞いいまして、わたしはもっと前、子どもの皆さんがまだ生まれていなかった頃に話題になった言葉を思い出しました。「もったいない」という言葉です。昔日本のおばあさんなどがよく使っていて、ダサいように感じていた言葉、このままいったらもう使われなくなってしまうのではないかと思われていた言葉が、世界から注目されて、一躍国際語になろうとしたことがありました。それはケニアの環境活動家でノーベル平和賞を受賞したマータイさんという人が、この言葉をとても気に入り、ぜひ世界に紹介したいというところから始まったものです。“MOTTAINAI”、古くさく感じるこの言葉も、横文字になると何か違った雰囲気を与えてくれたものでした。10年以上前とは世界はずいぶん変わりましたが、それでも日本など先進国の人口は世界の少数に過ぎませんが、その国々の収入が全世界の多くを占めているのは今もそれはそれほど変わりがありません。それは国連が訴えていることです。またフードロス(食品ロス)、まだ食べられるものを捨ててしまうのも、現在大きな問題となっています。それは家庭だけではありません。コンビニ、ファミレス、宴会などからも捨てられ、それらの多くは手つかずのまま捨てられるものもあります。他方では、「南」の貧しい人々が苦しんでいます。ユニセフの報告によりますと、アフリカなどでは5歳以下の子どもが大変多く餓死しつつあると報告されています。

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と神から言われて死んでしまった男。それなら神の前に豊かになるとは、どういうことでしょうか。この男は自分のことばかり考えていました。「わしの、わしの……」というようにです。自分勝手に生きていたのですね。男は自分の命がどこから来ているのか、誰によって与えられているのか、それを思い巡らすことも、感謝することもありませんでした。昨日も、そして今日も、また明日もわたしたちが生きていけるのは、決して当たり前のこと、自然現象ではありません。そう取るべきではありません。それは神さまによって生かされているから生きていけるのです。それを忘れたままの命、それに感謝することなく生きていくということは、どれだけ多くのものを手にしても、その人は依然として貧しいままなのでないでしょうか。そしてもし自分の命(魂)の源が当たり前、自然のことではなく、神さまから与えられていることを知るならば、今自分が手にしているものの使い方にも変化をもたらすのではないでしょうか。「わしが、わしが……」と自分だけに向かっているだけの命から、自分以外の周りの人々、助けを必要としている人々へと心が向くようにです。そのときこの男が自分だけの倉にしまっておくだけで終わってしまったようなことはなく、他の人と分かち合うなど、別の道を選ぶことができたはずです。人間が豊かである。豊かな者として生きる。それは持ち物の多さによるのではなく、その人がどこを向いて歩んでいるかによるのであり、命の源である神さまに目を向け、神さまに感謝して歩むことがその豊かさの初めとなるのです。