マラキ書3.19~24 (2019.12.15) 

121日から始まりましたアドベント、今日はもう第3週を迎えました。ローソクにも灯が3本ともりました。これまでの待降節の歩み、主を待ち望むということに関して、皆さんはいかがだったでしょうか。12月に入りますと何かと気ぜわしい毎日のことだと思います。その分、アドベントのことが隅に追いやられがちかもしれません。いよいよ次週はイエス・キリストの誕生を祝うクリスマスです。そして今日はそのクリスマスを待ち望む最後の週ということになります。聖書はマラキ書を開きました。しかもその書物の最後の箇所、319節から24節です。

これまで、具体的には1027日に降誕前節が始まり、次に現在の待降節へと続いて歩んできました。そこでの聖書はすべて旧約聖書を読んできました。最初は創世記1章でした。神のかたちとしての人間についてです。創世記の1章を開くということは、そのときにもお話ししましたが、創世記の最初を開くということだけにとどまらず、旧約聖書、さらには新約聖書も含めた聖書全体の最初を開くということでもありました。「初めに、神は天地を創造された」。これがその最初の言葉です。この朝、わたしたちはマラキ書を読みました。しかも最後の箇所をです。これを同じような言い方をするならば、この箇所はマラキ書最後の箇所というだけでなく、「初めに、神は天地を創造された」で始まった旧約聖書最後の箇所でもあるということです。さらには新約聖書につながる、直前の箇所ということでもあります。

「見よ、その日が来る 炉のように燃える日が」。預言者マラキは自らの書物の最後を、このような言葉から始めました。マラキが指し示した「その日」とは、大きくこの世界を二つに峻別するものでした。その一つは「高慢な者、悪を行う者」に向けられたものです。彼らは「すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない」。これが神に背を向ける者、不信仰な者に対して語られた言葉です。もう一方はその反対です。「しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには 義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の小牛のように 躍り出て跳び回る」。「義の太陽」、珍しい言葉です。しかし言わんとすることは分かります。義の太陽が昇り、その翼にはいやす力がある。そこから力を受けた者は、あたかも牛舎の中で今生まれたばかりの子牛のように、躍り出て跳び回ると語るのでした。それが「あなたたち」、すなわち主を信じるわたしたちの「その日」の姿だと言うのでした。

預言者マラキは自らの書物を閉じるに際し、また旧約聖書を閉じるにあたり、もう一度二人の偉大な人物について語りました。その一人であるモーセ、彼についてはこう言います。「わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため ホレブで掟と定めを命じておいた」。モーセはホレブ(シナイ)の山で神から十戒という律法(トーラー)を授与されました。それがここで言う「教え」です。その律法こそが旧新約いずれの時代にも、人々の信仰生活、また社会生活すべての基本となっていくものでした。それゆえモーセは聖書を代表する人物となりました。もう一人はエリヤです。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に 預言者エリヤをあなたたちに遣わす」。モーセが律法を代表するならば、エリヤは預言者の代表です。後の新約時代に、旧約聖書のことを「律法と預言者」という言い方がなされますが、まさにその代表がモーセとエリヤだったのです。しかもこの二人は、終わりのときに再び現れるという待望の信仰が人々の中にありました。たとえば、イエスが高い山の上に登られたとき、顔の様子がまったく変わり、服も真っ白に輝きました。そのとき一緒に現れたのはモーセとエリヤでした(ルカ9.28)。さらにまたイエスが十字架につけられたとき、人々はそこにエリヤが助けに現れるのではないかと話していました(マタイ27.49)。「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」との預言は、こうしたところに見られます。

そのエリヤの使命をマラキは次のように語りました。「彼は父の心を子に 子の心を父に向けさせる」。最近すぐ近くの練馬区で父親が息子を殺めるという痛ましい事件が起きました。同じ血のつながった家族なのにどうしてと驚く人もいれば、反対に血がつながった家族だからこそと思う人もいるでしょう。この出来事は現代の社会問題の一つとして、わたしたちに衝撃を与え、またいろいろ考えさせられるものとなりました。そこまでの事件性はなくとも、全国全世界では今でも家族の中で、それは父と子の間だけでなく、母と子の間でもあるでしょうし、祖父母と孫の間でも、また夫婦間、兄弟や姉妹の間でも起きているのではないでしょうか。そうした争いや軋轢は、聖書の中にもいっぱい出てきます。家族というのは一番近い隣人です。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とありますが(レビ記19.18)、その一番近い隣人が、その近さゆえにまた難しいということでもあるのです。

「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」。やがて来たるべきエリヤは、後のバプテスマのヨハネとなり、ヨハネによってその使命が引き継がれていくことになりました。洗礼者ヨハネの誕生に際し、父ザカリヤは天使ガブリエルによって次のように示されました。その子(ヨハネ)は「イスラエルの多くの子らをその神のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」(ルカ1.16)。洗礼者ヨハネは長じて後、宣教の働きを担うのですが、そこで彼の告げ知らせた言葉はこうでした。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(ルカ3.7以降)。まことに厳しくも、慰めに満ちたこの洗礼者ヨハネの宣教の言葉、これこそ旧約最後の預言者マラキが指し示した預言でもありました。「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が」と語るマラキの言葉は、こうして来たるべき預言者エリヤとしてのバプテスマのヨハネによって受け継がれ、人々のでこぼことした心を平らにして準備へと導いていくのでした。そして次週はいよいよ救い主イエス・キリストをお迎えいたします。わたしたちは預言者たちが示してきた救い主の誕生を、心から準備をして待ち望みたいと思います。

教会員の方は以下のリンクからライブ録画をご覧になれます。

https://nogatamachi.com/live-video/待降節第3主日礼拝アドベント_2019年12月15日/