ローマの信徒への手紙6.15~23 (2020.1.12) 

今日の聖書を読みますと、「奴隷どれい」という言葉が多く出てくるのに気づきます。皆さんはこの奴隷という言葉を耳にするとき、どのようなイメージを抱くでしょうか。そこでは何といっても近代史におけるアメリカ合衆国を中心としたおぞましい奴隷制のことを思い起こすのではないでしょうか。いやな言葉です。奴隷というのはパウロの時代、その古代においても存在していました。ただアメリカのような組織だったものではありませんでした。たとえば戦争によって捕虜ほりょとなった者や、貧しさゆえに売られた者などが奴隷となったりしたのですが、ユダヤの律法では6年仕えたら解放されるべきともありました。その状態が比較的ゆるやかであったことは、エジプトに奴隷として売られたヨセフや、フィレモンへの手紙に出てくる奴隷オネシモとパウロの関係などからも分かるのではないかと思います。ただしどの時代であっても共通するのは、奴隷が主人に絶対服従するということで、それは古代も近代でも変わりありませんでした。そうしたいやな立場、イメージである奴隷という言葉を、パウロは自らの肩書きとして積極的に用いています。ローマ書冒頭にある自己紹介「キリスト・イエスのしもべ(奴隷)」であるパウロがそれです。そのように聖書では奴隷という言葉に二面性があるのです。

今日の聖書にはこの奴隷という言葉を巡って、信仰者のあり方が語られています。それを16節では次のようにのべています。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」。いったいこの背景にはどのようなものがあったのでしょうか。このローマの信徒への手紙の受取り人であるローマ教会には大きく二つのグループがありました。一つはユダヤ人からクリスチャンになった人々、もう一方はこちらの方がはるかに多いのですが、イタリア人など異邦人からクリスチャンになった人々です。そして今日の話を展開させることとなったのは、直前の言葉でした。すなわち「あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にいるのです」との言葉です(14節)。この言葉を聞いたとき、ユダヤ人クリスチャンからはパウロが無律法主義者だ、恵みという名の下で自由放任を促していると受け取られかねませんでした。しかしパウロは放縦に流れることを勧めているわけではなく、別の意味で彼もまた律法を語る律法主義者でした。それは「キリストの律法」に従うことにおいてでした(ガラテヤ6.2)。また他方、異邦人キリスト者からは古いユダヤ律法主義とか表面的・偽善的な規則遵守に傾いて、教会では恵みがおろそかになるのではといったような誤解が生じることにもパウロは気をつけなくてはなりませんでした。

そうした背景のもとでパウロが語っているのであり、そこで鍵となるのが奴隷という言葉だったのです。そして人間がいずれかの奴隷になっていると二分するのでした。一つは「自分の五体を汚れと不法の奴隷として」ささげる、すなわち「罪の奴隷」として生きるか、それとも「義の奴隷」「神の奴隷」として生きるかというものです。人は例外なく何かの奴隷になっているのであり、そのどちらか一つなのです。その中間というものはありません。まさにイエス自身も言われたように、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらか」なのです(マタ6.24)。意識していようが、そうでなかろうが、消極的であっても積極的であっても、わたしたち人間はこの二つのどちらかを主人としているのであり、またその奴隷として生きているのです。当然その奴隷とは、人間の内面を指しているのは言うまでもありません。

それを誤解したユダヤ人とイエスとのこんな遣り取りがありました。イエスがユダヤ人に向かって、「真理はあなたたちを自由にする」と言われたときのことです。その自由に反応した彼らがこう尋ねたのです。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」。それに対してイエスが答えられます。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ8.33以降)。

今国会ではカジノなどを含むリゾート施設を作るかどうかが議論されています。カジノとはギャンブルであり、そこで懸念されているのはギャンブル依存症への危険があることです。この依存症、それ以外にも薬物依存やアルコール依存もあります。最近ではスマホの依存(症?)も指摘されています。ここ数年で一挙に増えたように見える光景ですが、多くの人がスマホを手にして道を歩いています。わたしは電車の中では新聞か本を読みますが、ほとんどはスマホを見ているようです。これは家庭でも学校でも頭の痛いところだと思います。こうした依存症で深刻なのは、それが強制されたものではなく、自分の意志で、自分の自由によって選んでいる(そう本人は思っている)ことにあります。けれどもさらに内面に入れば、それは自分の自由意志によってではなく何らかの強制、あたかも肉の奴隷となっているような不自由な姿でもあるのではないでしょうか。

もちろん信仰者も奴隷であるとパウロは語ります。けれどもわたしたちは肉の奴隷、罪の奴隷ではなく、神の、義の奴隷です。そしてこの関係に生きるとき、人はもう一方の主人である罪から解き放たれ、自由にされるのです。それを聖書は次のように語ります。「あなたがたは、今は罪から解放されて(自由にされて)神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。その行き着くところは、永遠の命です」。自由の反対は奴隷、奴隷の反対は自由ですが、まさにここで、すなわちキリストにおいて一つとなるのです。ルターが「キリスト者の自由」で述べているとおり、キリストに最も深くつながるとき、奴隷になるとき、人は自由になるというものです。反対にそこから離れた自由は、名ばかりの自由で、実は不自由そのものであり、罪の、肉の奴隷となっていることにほかなりません。

それが最後の結びの言葉で示されています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」。この神から与えられた賜物、これはギリシア語でカリスマと言います。一般には特別の能力、才能と日本語では理解されていますが、それは特別の人だけに与えられているものではなく、信じる者には誰にも与えられる神からの恵みの贈りものなのです。かつてわたしたちも罪の奴隷として生きていました。自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていました。またそれが何ものにも捕われない自由な生き方だと思っていました。しかし今ではキリストに捕えられた者として、キリストの奴隷として罪から、肉から自由の身となりました。それゆえ二度と奴隷の軛につながれないように、キリスト・イエスに向かって、キリスト・イエスと共に歩んでいきたいと願います。神の賜物たまものをいただいているのですから。

※教会員の方は以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第3 2020年1月12日