ローマの信徒への手紙7.1~6 (2020.1.19) 

聖書には大きく二つ、すなわち旧約聖書と新約聖書があります。それはふるい契約と新しい契約という意味であり、別の言い方をするならば律法と福音といってもよいと思います。救い主キリストを中心に、それ以前を律法が支配する世界、それ以降を福音の時代というようにです。キリストの救いを語る場合、そこでは霊の働きもまた重要です。今日の箇所の最後に「霊に従う新しい生き方」という言葉が出てきますが、まさにその霊のことです。その霊(聖霊)は別の箇所では次のようにも語られています。「文字は殺しますが、霊は生かします」(2コリント3.6)。またイエス自身の言葉としては、「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない」ともあります(ヨハネ6.63)。これらの言葉は、キリスト以前の生活とキリスト以降の生活を示したものであり、旧約と新約、言い換えれば律法と福音について述べたものでもあります。律法はわたしたちが何をすべきかを教える。しかしそれをする力は与えられませんでした。その実現する力は、ただキリストの救いをとおして与えられたのでした。「パンセ」で有名なパスカルがそれについてこのように言っています。「律法は、それ自身が与えなかったものを要求した。恩寵おんちょうは、それ自身の要求するものを与える」。いかにもパスカルらしい言い方ですが、ここにも旧約と新約、律法と福音、聖霊による新しい力が示されています。

その律法と福音の中心であるキリストとの関係を、パウロは結婚の比喩ひゆで語っています。それが今日の箇所の初めの部分です。ここを読みますと、当時の結婚観の一部がよく出ています。現代では結婚は両性の合意のみに基づくものであり、しかも夫婦は同等の権利を有すると憲法でうたっていますが、パウロの時代は男中心の世界であり、律法も同じように夫中心に定められていることが分かります。たとえば2節の「結婚した女は」という言葉が出てきますが、これは直訳しますと「男の下にある女」という言葉です。そんなところからも当時の結婚観が分かります。ただここでパウロは結婚の講義をしているのではなく、結婚を比喩として律法とキリストとの関係を述べているのです。ところが必ずしもうまく一つひとつが対応しているわけではありません。具体的なところでは、ここでいう妻とは誰(何)を意味しているのか。また夫とは……。さらに、その夫が死んで再婚した新しい夫とは何(誰)を指しているのかということです(3節)。

パウロはここで一つひとつがきちんと対応するように、そのために結婚の比喩を用いているではなく、大きくは一人の死の意味の大きさ、それによって自由が生まれる(解放が生じる)ということを語っているのではないでしょうか。それを受けた言葉が4節です。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためです」。そこで最も重要なことは、キリストの死、十字架の死なのであり、それがわたしたちを縛っていた律法、もっと本質的には罪からの解放となったのです。これが具体的にわたしたち一人ひとりに起きるのがバプテスマにおいてです。

昨年のクリスマスに2人の仲間がバプテスマを受けられました。その洗礼に際し、洗礼準備会を開きました。わたしはそのときに洗礼や、これからあずかる聖餐の意味について説明することにしています。もっとも初心の段階であまり多くを話しても、なかなか理解できるものではなく、やはり信仰というものは長い教会生活を経験しながら身に着いていくものであることも承知しています。洗礼については、少し前のローマ書6章を読むことにしています。「キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるためにバプテスマを受けたことを。わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(3-4節)。バプテスマへの言及はさらに続いていますが、ここにこそバプテスマの意味のすべてが語られているといってよいと思います。

これによってわたしたちは新しい命に生きるようになりました。当然そこには新しい実りが生じます。「こうしてわたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」とあるとおりです。「実を結ぶ」、それは植物の成長のイメージです。今教会の庭の花や木々はすでに春の準備をしています。まだつぼみは固い状態ですが、それでも少しずつ大きくなっています。このように寒い毎日なのに、生命は確実に活動しているのです。もちろん実を結ぶには、時間を必要としています。今日蒔いた種が、すぐに芽を出すわけではありません。今日行ったことが明日すぐに結果として現れるわけではないのです。そこでは待つこと、忍耐すること、希望をもって継続することが必要とされます。それならば信仰者にとってその実とは何でしょうか。使徒パウロはガラテヤ書の中で、それを次のように語っています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(5.22)。それまで、すなわちキリストに結ばれる前はどのような状態だったのでしょうか。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中で働き、死に至る実を結んでいました」。ここに「神に対して実を結ぶ」、言い換えれば「霊の結ぶ実」に対して「死に至る実」が語られています。それは霊の結ぶ実の反対です。争い、利己心、不和、ねたみなどといってよいと思います(ガラテヤ書5章)。わたしたちがどのような実を結ぶのか、今結びつつあるのか。それはすぐに結果が現れるわけではありませんが、その実の中身はずいぶん違ったものとなり、まったく反対の方向に向かっているのです。

しかしわたしたちはもはや「死に至る実」ではなく、「神に対して実を結ぶ」ように導かれています。わたしたちの歩みは確かにたどたどしいかもしれませんが、ただひとえにキリストの十字架の死によって、そこにつらなることによって、自らの命の内容とその方向すっかり新しいものへと変えられていくのです。それをひとことでまとめるならば、「文字に従う古い生き方ではなく、霊に従う新しい生き方で仕えるようになっている」ということなのです。落ち込むときがあり、自信をなくすことがあり、心が暗くなることもありますが、わたしたちはここに目を留めて、心を高くあげて歩んでいきたいと思います。

※教会員の方は以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第4 2020年1月19日