ローマの信徒への手紙8.12-17 (2020.2.9) 

新約聖書を読んでいますと、イエスはさまざまな称号をもって呼ばれていることが分かります。たとえば代表的なものとしては、キリスト(メシア)としてのイエスが挙げられます。あるいは苦難の僕としてのイエスもあります。人の子、主としてのイエス、さらには言(ロゴス)もまた、イエスにつけられて称号の一つです。そうした一つひとつの称号を調べていきますと、イエスという方がどのような方であり、どのような働きをなしたのかの全体が分かってきます。

そのような称号の中に「神の子」もあります。神の子としてイエス。ペトロはイエスに向かって告白しました。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16.16)。またイエスが十字架で息を引き取られたのを見て、そばに立っていた百人隊長が言いました。「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15.39)。このように神の子もまた、イエスにつけられた称号でした。

その神の子という呼び名が、この朝わたしたちにもつけられているのです。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(14節)。もちろんイエスが神の子であることと、わたしたちも神の子であるというのはまったく同じ意味ではないでしょう。イエスは神の子であると同時に、メシアでもあり、苦難の僕でもあり、大祭司でもあり、そのような一連の流れの中で神の子でした。そのような称号はわたしたちには与えられていません。それにもかかわらず、この神の子という一点においては、イエスとわたしたちは同じ関係へと招き入れられているのです。父なる神に対してイエスは子である。それはまたイエスにあって、わたしたち主を信じる者たちも父なる神の子と呼ばれる恵みにあずかっているのです。それを旧約聖書の言葉を用いて次のように言い表されています。「『わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。《あなたたちは、わたしの民でない》と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる』」(ローマ9.25-26)。

信仰に入る前の人間はどうなのでしょう。その人は罪の支配の下に生きていました。自分の腹を神とし、肉に従って歩んでいる状態です。それを聖書は次のように述べています。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」。今わたしたちはかつての古い自分に生きているのではなく、神の霊に導かれて生きているのです。死ではなく命と平和が与えられる道です。

この相反する二つの関係を、奴隷として生きる者と神の子として生きる者として語っています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」(15節)。今日のわたしたちには奴隷として生きる、そこからくる緊張感はよく分かりません。それでもここで「恐れに陥れる」という言葉が示しているように、そこにはいつもビクビクした恐れや緊張がつきまとっていることは十分に想像できます。このような恐れや緊張が親子関係など家族間にあったらどうでしょう。もっともくつろげる場所であるはずの家庭にビクビクするような緊張があり、憩いとはほど遠い場所であったらです。最近DVをはじめ、子どもの虐待から死に至る痛ましい事件がここ首都圏だけでなく、あちこちで起きています。こうしたニュースを聞いていますと、それは通常の子どもが親に甘えられるような関係ではなく、ビクビクしながら恐れが支配する関係であったことが分かります。

わたしはこの子育てに関して、「カラマーゾフの兄弟」(ドストエフスキー)の結びの箇所が好きです。主人公のアリョーシャが少年たちにこう言うのです。「総じて楽しい思い出ほど、ことに親のひざもとで暮らした思い出ほど、その後の生涯にとって力強く有益なものはありません。子どもの時から保存されている美しく神聖な思い出こそ、何よりも一番よい教育なのです。過去にそういう追憶をたくさん集めたものは、一生救われるのです。もしそういうものが一つでも、わたしたちの心に残っていれば、その思い出はいつかわたしたちを救うでしょう。もしかしたらわたしたちは悪人になるかもしれません。悪行を避けることができないかもしれません。人の涙を笑うようになるかもしれません。それでも子ども時代の良い思い出は、そこからわたしたちをギリギリのところで救うにちがいありません」。わたしも自分の子どもたちを不十分ながらそのような思いで育ててきましたし、今子育て真っ最中の彼らにも自分の子どもたちには楽しい思い出をいっぱいつくってやってほしいとアドバイスしています。

「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」。わたしたちはもはや奴隷ではなく、実際の子どもです。しかも地上の限界ある親に対する子どもでなく、それ以上の神の子として受け入れられているのです。それゆえにわたしたちは、天の神に向って「アッバ、父よ」と呼びかけることができるのです。この「アッバ」とはアラム語で「お父ちゃん」といったような意味で、イエスもゲツセマネで同じように呼びかけられました(マルコ14.36)。従ってここでは二回「お父さん」という呼びかけが続いているということです。人間の親子関係はどれだけ善意や愛情に満ちていても、そこには誤りがあり、別の問題がいろいろ生じるものです。けれどもこの「お父ちゃん」とまで呼ぶことを許してくださった父なる神とその神の子たちとの関係は、無限の赦しと癒しに基づいたものでした。わたしたちがどれだけ失敗したとしても、道に迷って遠く離れたとしても、父なる神は深く受け止めてくださる、そのような父と子の関係なのです。父への反抗から遠くへ旅立ち、結果としてボロボロになって帰って来た息子をしっかり抱きしめて迎えたあの放蕩ほうとう息子の父の姿と同じです。道に迷った1匹の羊のために、他の99匹を残しておいてまでその1匹を捜し続けるあの羊飼いの姿とも重なります。だからこそ安心して「お父さん」と呼びかけ、自らを委ねることができるのです。

わたしたちが神の子として受け入れられるならば、当然相続人として認められることでもあります。父なる神からの相続人となる、ならば何を相続するのでしょうか。それは神の国の相続であり、永遠の命でもあります。今わたしたちはキリストにあって、キリストを通して、そしてキリストと共に神の国の相続人になるというまことに大きな恵みの賜物をいただいているのです。その御国建設のためには、教会において、また日々の信仰生活において、さまざまな苦しみや困難が伴いますが、それでもイエス・キリスト共に神の子として歩むことがわたしたちに許されています。「アッバ、父よ」と呼びかけ、祈ることが許されているのです。どのようなことで失敗したとしても、途方に暮れるようなことがあったとしても、この父なる神と、その子としての変わることのない関係に自らを委ねて歩んでいきたいと願います。

※教会員の方は以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

降誕節第7 2020年2月9日