ローマの信徒への手紙8.18~30 (2020.2.16) 

今年度から読み始めてきましたローマの信徒への手紙も、ここ8章、しかもその後半になりますと、いよいよクライマックスを迎えます。ローマ書は全体で16章から成り立っていまして、その真ん中に当たるここ8章の今日の箇所と次週の箇所がちょうど山の頂に相当する箇所といってよいと思います。ローマ書の後半は倫理、すなわち信仰者はどのように生きるかについて書かれているのに対し、今日の箇所も含めた前半は神学的な面、つまりイエス・キリストとはどのような方なのか、その十字架と復活による救いを中心とし、また聖霊の働きについて述べられています。そうした中にあって、今日の箇所で最も印象的な部分である28節の言葉、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」、それを巡って展開されていると言えます。

冒頭はこのような言葉から始まりました。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」。現在の苦しみと、将来の栄光。現在のわたしたちの苦しみとは何でしょうか。大きくは人間として、肉としての限界ある者として抱えているさまざまな問題があります。さらには一人ひとりが個人的に直面している苦しみがいろいろあります。悩み、恐れ、病気、孤独、その他さまざまな苦しみを抱えているのが現実のわたしです。しかしそれでも言うのでした。「将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べれば、取るに足りない」と。

現在と将来という時間の関係で言うならば、わたしたち信仰者は二つの時間を生きています。すなわち既に救われた者という面と、もう一方ではまだ完全には救われていない、途上の者であるという面です。それは今日発行の「あかしびと」にも書いていますが、宗教改革者たちはそれを「義人にして同時に罪人」という言葉で言い表しました。キリストの十字架により、具体的には洗礼によってわたしたちは義とされました。けれどもこの地上の生涯を歩む限り、罪の支配と誘惑に絶えずさらされる途上の人でもあるからです。その二面性を的確に言い表しているのが23節です。「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。現在のわたしたちは「心の中でうめきながら待ち望んでいます」という状態なのでしょうか。わたしたちは既に神の子とされたのではなかったのですか(15-16節)。だから「アッバ、父よ」と呼ぶことが許されたはずです。わたしたちは既にキリストの贖いの恵みを受けたのではないのですか。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」と語られたのはかなり前の3.25においてでした。確かにその通りです。だから「霊の初穂」(保証)がそれを支えているのです。それなのに「心の中でうめきながら待ち望んでいます」ということはどういうことなのでしょうか。矛盾しているように聞こえます。実際地上の人間の頭の中では矛盾しています。しかし神の前における人間は、決してスッキリ一本化して分かりやすく説明できるようなものではないのです。二つの時間は、すなわち神の恵みと人間の応答は、緊張関係の中で分かちがたく結び合っているからです。

信仰者とはある意味では、希望に生きる人であると言えます。現に見ているものだけでなく、それを超えて見えないもの、主の約束に生きているからです。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです(2コリント4.18)。現在の苦しみがいかに深刻であったとしても、その先には何もなく、単なる苦しみでしかないというのではなく、「産みの苦しみ」だと述べています。これは出産の姿です。わたしたちは誰もがそうであったように、母親の苦しみを経て後、その先では喜びをもって迎えられました。そのように信仰において、今の苦しみはやがて現される喜び、栄光につながるのです。その現在を支えるものが希望なのであり、希望の一緒に歩く仲間が忍耐です。「わたしたちは、目に見えないものを待ち望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」とある通りです。

わたしたちの今を支えるのは希望だけではありません。聖霊もまたわたしたちの内にあって助けてくださるからです。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と語っています。わたしは牧師館で毎日連れ合いと二人で、また別の場所では一人で祈っています。教会員のこと、家族のこと、社会のこと、さまざまです。しかしわたしは人のために祈っているだけではありません。わたし自身、他の人から祈られていることを知っています。毎週の祈祷会でいつもわたしのために祈ってくださる、その祈りにとても励まされています。また遠く離れた誰かもまた祈ってくれているゆえに、現在の自分があるとの認識を持っています。それだけではありません。それ以上に聖霊による執り成しの祈りがあるのです。「言葉に表せないうめきをもって」とあります。それはわたしたちにとって耐えきれないような重荷であったとしても、聖霊自らがその重荷を引き受けてくださり、その重荷を一緒に担ってくださることによって、それを軽くしてくださるというものです。

だから次のようにわたしたちは確信することができるのです。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万物が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。万物とはすべてということです。一部だけ、うまくいっている部分だけが益となるのではありません。それは余りに表面的な捉え方です。うまくいっていないことも、すなわち健康も病気も、富も貧しさも、もっと大きくは実り豊かな年もそうでない年も、ということです。

これに関して旧約聖書に感動的な話があります。ヨセフは父から特別可愛がられたゆえに、兄たちのねたみを買い、エジプトに奴隷として売られてしまいました。ところが数奇な道を経て、彼はエジプトで宰相の地位に上り詰めました。やがて再会した兄たちに向かってヨセフは自分の辿った道をこう語るのでした。「わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです……わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(創世記45.5以降)。ヨセフがエジプトにいる直接の原因は兄たちのねたみや暴力でした。けれども彼はまた、神が遣わしたのだと捉えていたのです。「万事が益となるように共に働く」神。どのような不遇の中にあっても、無駄なものは何一つない。わたしたちにとって、無駄な時間は何もないのです。確かに苦しいことが多くあり、それ自体は決して益でも善でもないかもしれません。しかし神はキリストにあって、また聖霊によってそれさえも用いて益としてくださるのです。こうした力強い主の導きを信じ、わたしたちは希望と忍耐をもって歩んでいくのです。

※教会員の方は以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

保護中: 降誕節第8 2020年2月16日