ヨハネによる福音書9.1~12 (2020.3.8) 

体や心に障がいを抱えて生きるということは、現代でも大きな重荷となっています。目の見えない人をはじめ、耳に、足に、また心にさまざまな障がいを持った人々です。現代のような医療や保健衛生が進んだ時代でもそうした困難な人々がいるわけですから、まして聖書の古代社会ではなおさらです。福音書の中に盲人や他の障がい者がよく出てくるのは、それだけ多く病に苦しむ人々がいたということです。ただ聖書ではそうした盲人の視力の回復、足の不自由な人の癒しを語りつつ、そこだけにとどまるのではなく、もっと深めて、いったい見えるようになるとはどういうことなのか、足の不自由な人が自分の足で立つということはどういうことなのかを示しています。今日の聖書でも冒頭部分では目の見えない人の癒しが語られていますが、話はそれだけで終わっていません。この話は9章全体に及び、41節から成る長いストーリーです。その全体を読みますと、話は意外な方向へと展開しています。後半の部分に入りますと、話は単なる肉眼の見える、見えないだけでなく、本当に見えるとは何なのか、見えないとは何を言うのかを、罪との関係で述べているからです。

ここに生まれつき目の見えない人がいました。そこをイエスと弟子たちが通りかかったとき、弟子たちがイエスに尋ねました。「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」。中途失明者ならばまだ違った捉え方があるのかもしれません。しかしこの人は生まれつきの盲人です。光を一度も見たことがありません。「なぜ目が見えないまま生まれてきたのか」。これは厳しく、しかも重い問いです。なぜ病があるのか。なぜ不幸があるのか。しかも他の人々でなく、このわたしに。あるいはわたしの親しいあの人に。けれども次に続く問いは果たして必要でしょうか。「だれが罪を犯したからですか」。これはふさわしい問いではありませんでした。むしろ残酷な問いといってよいと思います。いったい目の見えないまま生まれた人に罪あるなら、それはどこで罪を犯したのでしょうか。お母さんのおなかの中で。それとももっと前のどこかで。

不幸の原因を過去に求めるのは、古今東西よく行われてきましたし、現在でもそれほど変わりありません。そこには罪の結果としての罰、それが目の見えない障がいとなって現れるというものです。原因と結果は深く結びついていますから、何らかの病気や事故が起きればそこには原因がある。だからそれを究明していこうとします。しかしそれですべてが説明できるわけではありません。ここには原因として罪が語られます。それによって人はますます苦しみ、間違った意味で宗教的な世界に捕らわれていくことがあります。これを因果応報と言い、現在の日本においても支配的な考えとなっていますし、世界でも、また聖書の時代にもありました。先程の弟子たちの言葉、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」がそれです。決して意地悪な質問というのではなく、当時の社会の中にあった一般的な考えであったのでしょう。

けれどもイエスは、そうした捉えかたを否定されました。こうお答えになります。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。実に驚くべき答えです。これは神を信じていなければ、決して生まれてこない捉え方です。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。この人が目の見えないまま生まれたのは、その原因が過去にあるのではない。罪が原因なのではない。そうではなく、「神の業がこの人に現れるためである」。イエスは今この病に苦しむ人を前に、そして弟子たちに向かって、目を過去に、後ろにではなく、前方に、明日に向けるよう示されました。これは信仰から来る希望です。わたしたちが今ここに、どのような状態であっても今ここにいるのは、昨日までの結果ではありますが、それだけではなく、それと同時に、それ以上に明日の原因としての今でもあるのです。たとえ今がいかに苦しい光の見えないような状況にあったとしても、それさえも明日を造り出す原因・課題として神は整えてくださいます。今がたとえ不遇な環境にあっても、神はそれらをも用いて明日へと導いてくださるのです。しかも「神の業がこの人に現れるために」です。ここでの「業」が複数形であるのは心に留めておいてよいと思います。業は一つしかないというのでなく、さまざまな業があり、証しがあってよいのです。しかも「この人に」という小さな言葉にも注視したいと思います。他の人と同じというのではなく、あなただけに与えられた、あなたの生活によってだけ証しができるさまざまな神の業があるということだからです。まさに「神の業が現れるための」、そのように未来に開かれた一人ひとりの今日なのです。

この男はシロアムの池で視力の回復を得ました。それはイエスの力ある業の結果ですが、そのことを通していったい見えるということはどういうことなのかといった本質へとわたしたちを導き入れます。それがこの章の最後のところで語られています。イエスは言われました。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」(39節)。生まれつき目の見えない男は二重の意味で目が開かれました。一つは肉眼の目、もう一つは信仰の目です。「見えない者は見えるようになる」とはそのことです。他方では「見える者は見えないようになる」とあるように、ここには喪失もありました。ファリサイ派の人々です。彼らは言いました。「我々も見えないということか」。それに対してイエスが言われます。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」。

「こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。わたしたちは今見える者になった者として、明日に向かって、絶えず前方に開かれた者となりました。後方ではありません。神は主イエス・キリストを通してこれから何を行われるのか、この貧しいわたしの生活であっても、どのような障がいがあっても、それさえも用いて御旨を行おうとしておられるのであり、そのような導きと恵みの中にわたしたちの今があるのです。

※教会員の方は以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

受難節第2 2020年3月8日