ヨハネによる福音書6.60~71 (2020.3.15) 

主イエスは弟子たちに向かって、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われました(マタイ28.19)。本日、わたしたちの教会では「あかしびと」を発行しました。この長年続けている文書活動もイエスの命令を受けたものであると言ってよいでしょう。その証しについてですが、御言葉が素直に人に受け入れられる場合と、そうでない場合、むしろ反発される場合があります。これは世々にわたる説教者の悩んできたところですが、それはまた信仰者である皆さん一人ひとりも経験している悩みでもあります。普段心にかけている自分の友人や家族に証しをします。そこではいい話だと受け入れてもらえる部分があると思えば、あるところではどうしても話が通じなくなってしまうところがある。これが証し・伝道の難しさです。その原因は何だろうかと考えます。自分の話が下手だからなのでしょうか。信仰が足りないのだろうか。そういう面は否定できないかもしれませんが、根本的なところでは、福音にはそのようにどうしても自然のままの人間には越えられない壁、それがつまずきとなってあらわれるからなのです。

イエスの話を聞いた弟子たちの多くが言いました。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。これがイエスに向かって投げかけられた言葉です。いいお話でした、感動しました、ではないのです。それは今日でもわたしたちキリスト者、また教会に対する世間の反応を代弁した言葉だとも言えます。イエスの場合はこのような言葉が反発を招きました。それは54節以降の言葉です。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」。一つとんで56節「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」。この言葉の背後には聖餐が想定されています。キリストの体なるパン、流された血潮なる杯です。信仰者にとってこれはつまずきなしに受け入れられる言葉ですが、そうでない人にとっては分かりにくい言葉であり、さらには冒瀆的な言葉に聞こえたのでした。

「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」と、それまでイエスと共に歩んできた多くの弟子たちが去って行きました。彼らはノンクリスチャンではなく、弟子たちでした。どの程度の弟子だったのでしょうか。この話の発端は6章初めにありますように、5千人のパンの奇跡でした。自分の胃袋が満たされる、自分の欲求を満たしてくれる。そうしたイエスならよく分かるし、そうしたイエスなら信じてついていける。しかし自分が受けるのではなく自分を与えるとなると、そして自分の頭では理解できない困難さに直面するとたちまち離れていってしまう。第二次世界大戦のドイツ、ヒトラーの政府に抵抗して殉教した牧師・神学者のボンヘッファーの書物に「キリストに従う」があります。その中で有名な一節「安価な恵みと高価な恵み」が語られています。「安価な恵みとは(バーゲンセールのように)投げ売りされた赦し、慰め、聖礼典のことである。悔い改め抜きの赦しの宣教であり、罪の告白抜きの聖餐であり、服従のない、また十字架のない恵みである」。それに対し高価な恵みとは、キリストの十字架を負うことによって与えられるものであり、自分をはじめこの世的なものへの愛着を捨てることへの招きであるというものです。自分にとって快適である限り、イエスの弟子として従っていく。しかし自分を捨てるとか、犠牲にしなくてはならなくなると、身を引いてしまうというものです。それが安価な恵みと高価な恵みを分かつのです。

イエスは次のように言われました。「命を与えるのは、“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)。「肉は何の役にも立たない」。ここには肉と霊が対立しています。わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って歩んでいるのではなく、霊に従っているのであり、そのように導かれています。そこに闘いが生まれるのですが、イエスは霊によって語られているのですから、霊的に理解されなくてはなりません。

多くの弟子たちがそれ以来イエスと共に歩まなくなったとき、最も近い弟子である12弟子に言われました。「あなたがたも離れていきたいか」。これは単純に質問しておられるのではなく、「離れていこうとしているのではあるまいね(のではないか)」といったニュアンスの問いであり、そこには12弟子でさえ決して揺るぎない堅い信仰があるとは思っておられないようなそのような言葉です。それに対してペトロが言いました。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命を持っておられます。あなたこそ神の聖者で」す。けれどもイエスがこの信仰告白を評価した言葉は次に見当たりません。そうではなくすぐにユダの裏切りを指摘されました。そこに多くの弟子たちが離れ去ったと同様、12弟子たちの中にも不安定な信仰を見ておられたのではないでしょうか。結果としてはユダだけが裏切ったのではなく、他の弟子たちもすべてイエスから離れ去っていきました。イエスだけが一人取り残されたのです。私たちが信仰に入るとき、だれも最初から裏切る、離れ去るとは思っていません。けれども人間は、しばしば自分の語った言葉を裏切ることがあります。そのようにこれまでどれだけ自分の気持ちに不誠実であったでしょうか。そして人を裏切り、神さえも捨てる。人間は本質的にそうした自分中心の肉なる罪、弱さを抱え、それが信仰のつまずきとなっていくのです。しかし実はそのつまずきの先に、そのつまずきを超えたところに、神のまことの恵みがあるのではないでしょうか。それが十字架の恵みであり、ボンヘッファーのいう高価な恵みです。わたしたちはそこへ招かれているのです。確かにイエス共にあっても十字架の重荷を負うことには困難が伴います。それでもそこにこそまことの喜びがあり、命があり、力があるのです。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない」。今、わたしたちはその霊に導かれ、イエスの命の言葉に生かされていることを覚えて歩んでいくのです。

 

※教会員の方は以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

受難節第3 2020年3月15日