マリアの献げもの   ヨハネによる福音書12.1-8     2020.3.22 

わたしたちの教会では、毎年クリスマスにカレンダーを皆にプレゼントしています。カレンダーは二種類あり、その一つは一枚ものです。皆さんの中の半数近くはその一枚もののカレンダーを現在用いておられるはずです。それは教会にも掲げられていますし、わたしも机の前の壁に貼っています。このカレンダーには渡辺禎雄さんの版画が毎年印刷されています。今年2020年の絵は、まさに今日の聖書の箇所、すなわちナルドの香油をイエスの足に塗って、それを自分の髪でぬぐうマリアが描かれています。

受難節の歩みも後半に入り、イエスの十字架がいよいよ近づいてきました。ベタニアという村でナルドの香油を注がれた出来事は、過越祭の6日前のことです。時間的な近さだけにとどまりません。ベタニアからエルサレムまでの距離は約3㎞、すぐ隣の村なのです。そのように距離的にも十字架の出来事が近づいてきたのでした。イエスがベタニアに入られたということは、いよいよ十字架の死に向かって新たに歩み出されたということでもあったのです。

ここが誰の家かはっきりとは分かりませんが、ラザロ、マルタ、マリアの3兄弟がそろって出てきますので、彼らの家ではないかと思います。そこで夕食がイエス一行に用意されました。ラザロはイエスの傍らに座り、マルタはいつものように食事の世話など甲斐甲斐しく働いていました。ユダヤの大きな祭りである過越祭に向かっての食事ですから、そこには感謝と喜びが伴い、また前の11章の流れから言うとラザロの死からのよみがえりの感謝も含まれていたかもしれません。けれどもイエスの心は、必ずしも皆と同じではありませんでした。ただ一人張り詰めた心で、しかも死を前にした重苦しい気持ちで食事の席に着いておられたのでした。今この時がイエスにとってどういう時なのか、また周りの弟子たちにとってどういう時であるのか、他の誰も知りませんでした。イエスは最も愛する人々に囲まれながらも、たった一人だったのです。

ここにもう一人、イエスと同じように時に目覚めている者がいました。マリアです。彼女は一同が過ごしているような感謝と愛餐の時とは別の思いで臨んでいました。だから彼女の行動は他の人々とは違っていましたし、他の人々からは理解しにくいものでした。その行動とは純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラを、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったことでした。それによって家は香油の香りでいっぱいになりました。1リトラとは約330gですから、かなり多くの香油を流したことになります。それを聖書では「家は香油の香りでいっぱいになった」と記しています。ただこの描写、単に鼻から入る匂いとしての香りだけでなく、もっと霊の心を豊かにする香りをも暗示した表現だと受け取ってよいと思います。

しかしすべての者がこの香りを喜んだのではありませんでした。反対に非難した者もいました。イスカリオテのユダが言いました。「なぜ、この香油を3百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。もっともな主張であり、かっこいい言葉ですね。実際この主張に異議を唱えることのできる者はいないでしょう。3百デナリオンとは1年分の賃金に相当する大金です。それほどの高価な香油を足に流してしまうより、世の中の貧しい人々の救済に用いるべきではないか。まさに今日でも教会が行っている対外献金など、慈善事業の精神です。ただ次の言葉を聞くとがっかりです。こうあります。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」。マリアの行為を無駄な浪費として非難し、その上で社会事業の尊さを主張する。ところがそれは自分の悪を覆い隠すためのものであり、そのために貧しい人々を盾に取っていたのです。もってのほかです。それでもこういうことは言えます。どういう動機で語られたにせよ、これだけの高価な香油を売って貧しい人に施すことは、十分に正当性がある。イエスご自身も貧しい人への施しといった社会的実践、隣人愛を否定されたわけではありませんでした。

こうした遣り取りを受けてイエスが言われました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」。ナルドの香油は、イエスの十字架と死と葬りを指し示していたのでした。それは決して浪費でもなければ無益な業でもなく、献身の献げものだったのです。今ここでマリアは自分にできる精一杯の献身の業を行ったのであり、イエスはそれを認められたのでした。讃美歌332番の1節には次のような賛美があります。「主はいのちを あたえませり、主は血しおを ながしませり。その死によりてぞ われは生きぬ。われなにをなして 主にむくいし」。そこに流れているものはキリストからの愛、キリストへの愛です。そして献身的な愛が示されています。

使徒パウロが言いました。「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」(2コリント2.15-16)。マリアの献げたナルドの香油の香りは、まさにイエスの十字架の死の香りでもあり、またその死からのよみがえりともなる命の香りでもありました。わたしたちもまたマリアのように、それぞれのナルドの香油を用意し、献身の中でこの部屋を、また身近の場所を豊かな香りいっぱいにしたいと願います。わたしたちが今献げているもの、そして今後献げていくものがどのようなものであったとしても、またたとえどんなに小さな業であっても、主イエス・キリストによってそれが良い香りとなり、命をもたらす香りとなっていくのです。

※教会員の方は以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

保護中: 受難節第4 2020年3月22日