一粒の麦の死   ヨハネによる福音書12.20-36    2020.3.29 

この朝は新型コロナウイルスの感染が拡大している、まさにそのさ中で迎えました。そのためわたしたちの教会では通常の礼拝を断念し、教会員はこの礼拝時間を覚えて自宅で祈り、またネット中継によって礼拝を守ることとしました。いろいろなことが制約された異例の礼拝です。

そうした中にあって3月も最後の主の日、受難節第5主日を迎えました。前回はナルドの香油の話でしたが、その後を少し辿ってみますと、イエスのことを聞いた多くの人々が方々からやって来ました。理由は「それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった」と記されています(9節)。そこで祭司長たちはラザロも殺そうと謀るようになりました。多くのユダヤ人がラザロのことで祭司長たちから離れ、イエスを信じるようになったからです(11節)。いよいよ過越祭という大きなユダヤの祭りが来ました。そこでイエスはエルサレムに入られます。大勢の群衆は彼を喜んで迎えました(12節以降)。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」。このあまりに盛大な歓迎を見たファリサイ派の人々は互いに言いました。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」(19節)。

そして今日の箇所に入ります。それはギリシア人がイエスに面会を求めるところから始まります。「何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」とファリサイ派の人々が嘆いたように、ユダヤ人だけでなく、遠くはギリシア人がイエスに会いに来たのでした。そのことを通して、地理的な広さ、イエスの教えの普遍性が示されています。彼らは言いました。「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」。それを取り次いだ弟子のフィリポとアンデレはイエスに伝えます。その面会の目的は何だったのか、どのような質問だったのかは書かれていません。いずれにせよ面会はかなったようです。そこでイエスが次のように言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。あまりにも有名なこの言葉、誰もが暗記しているくらい親しんでいるのではないでしょうか。そして改めて思うのは、ここに込められている意味の深さです。考えても考えてもなかなか核心のところに到達できないような深遠さがあります。「一粒の麦の死」とは何なのか。それは誰なのだろう。

この言葉とあわせて「時」という言葉が心に迫ってきます。3回出てきました。イエスが面会を求められたとき、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。しかしこの栄光の時は、また「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言わしめるほど苦しみを伴う時でもありました。それでも「わたしはまさにこの時のために来たのだ」(27節)と強い確信と神への服従をもって迎えようとされた時でもあります。栄光とは具体的にはイエスの十字架の死を指しています。その死によって始まる新しい神の救いです。この世界で信じられている、人間が受けるような栄誉や名誉といった栄光ではなく、それとはまったく反対の十字架の死、それをとおした救いの出来事、それが栄光なのです。

一粒の麦の死は、この「時」と深く関係しています。一粒の麦の死は、ご自分の十字架の死を指し示しています。イエスの死は表面的には敗北であり悲惨なものにしか見えないかもしれませんが、一粒の麦から多くの実が生じるように、そこから豊かな実りが生まれます。イエスの死は無駄なものでもなければ敗北でもなく、実はそこから生まれる新しい命の源となるのです。

イエスはご自身の十字架の死を語りつつ、そこで次のように語られました。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。イエスの十字架の死が敗北でなく栄光の時であり、命の源であることと同様に、わたしたちも罪に捕らわれた自分の命を愛するのでなく、憎むことにおいて、そのことによってまことの命にあずかるというのです。イエスの死が命の始まりであるように、わたしたちの命は絶えざる死でなければなりません。日々新たにされる命は、同時に日々死に続けなければならない命でもあるのです。まさに内なる人が日々新たにされるために、外なる肉の人は滅びなくてはならないのです(2コリント4.16)。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。主イエスの死は、そのことをわたしたちに教え、永遠の豊かな命への道を開いてくださいました。「自分の命を愛する」ことと、「自分の命を憎む」こと。それはまったく正反対の方向へとわたしたちを導きます。その中にあって「自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と言われました。これは自分の命を滅ぼすことではなく、むしろそこからまことの命、永遠の命が生まれることを意味しています。イエスの死が敗北でなく栄光の時であり、そのイエスにつらなるときわたしたちの命も新たに始まるのです。

今日の礼拝は2019年度の最後となりました。4月から新しい年度を迎えます。希望と喜びを持って新年度を迎える人がいます。さまざまな問題を解決できないまま4月を迎える人もいます。またわたしたちの群れには、今も病床にある人、療養中の人、リハビリの中にある人もいます。老境にあって一人施設におられる方もいます。社会的には新型コロナウイルスにより命の脅威にさらされたまま、日常生活を続けなければなりません。けれどもいかなる逆境にさらされても、わたしたちの命の源は主イエス・キリストにあります。一粒の麦の死として、わたしたちのために、わたしたちに代って、十字架の死につかれることによって、そこからまことの命をもたらしてくださった方なのです。その主を信じて、また自らを委ねて新しい年へと進んでいきたいと願います。

※本宣教はネット配信による礼拝として守られました。
 以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

受難節第5 2020年3月29日