真 理   ヨハネによる福音書18.28-38       2020.4.5 

今日は棕梠の主日、主イエスの地上の最後となる受難週の始まりです。歓呼の声で迎えられたイエスは、その人々に捨てられ十字架につけられていくように、人間の心が目まぐるしく揺れ動く1週間です。いったい誰がイエスに苦難を強いたのでしょうか。加害者は誰なのでしょう。そこにはいろいろな人々が見えてきます。ユダヤの指導者たち、民衆、ピラトなどローマ人、こうした人々による憎しみや暴力でイエスは苦難を受けられました。それだけではありません。イエスが何よりも苦しまれたのは、これまで愛し、育てられた弟子たちがすべて離れていったことでした。そのした弟子たちの中には、わたしたち自身も入るのではないかと問われる1週間でもあります。十字架を頂点としたイエスの受難には、こうしたさまざまな苦しみが込められています。

木曜日の夜、捕らえられたイエスはまずユダヤの大祭司のところへ連行されます。次に彼らはローマ総督であったピラトのもとへイエスを連れていきました。もうすでに明け方になっていました。ユダヤ人が総督官邸に来たとき、ピラトが出てきて「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言いました。この場合の罪とは宗教的な罪ではなく、一般の犯罪、法にそむくもののことです。なぜならピラトはユダヤ人の罪を知らないからです。そこでピラトは「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言いました。するとユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と答えます。確かにこの時代、死刑はローマ総督の権限に属し、ユダヤ人にはありませんでした。しかし問題なのは、権限のことではなく、ユダヤ人がイエスを死刑にするということをすでに決めていたことにありました。

ユダヤ人たちはピラトのもとへ行ったとき、官邸の中には入りませんでした。「汚れないで過越の食事をするため」だと書かれています。ピラトは支配者ですが、ユダヤ人から見れば異邦人、汚れた人でした。だから自分たちの信仰を守るために異邦人の家の中に入らなかったのです。ユダヤ人たちは神から遣わされた独り子を、しかも何ら死に値することのない方を死に追いやろうとしています。細かい清めの儀式を守ることによって自分流の信仰を守りつつ、他方では人を死に追いやるという、信仰からもっとも遠い重大な罪を犯そうとしていたのです。こういうことを行う、こういう矛盾したことをできるのが人間の非常に暗い一面ではないでしょうか。

イエスの受難はユダヤ人の敵意だけによるのではなく、ピラトの優柔不断な態度からももたらされました。ピラトはローマ人の官僚であり未信者です。ですからユダヤ人がなぜイエスを訴えているのか、その中身はよく分かりませんでした。たとえば「いったい何をしたのか」(35節)とピラトがイエスに尋ねたとき、イエスは「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないよう、部下が戦ったことだろう」と答えています。この言葉はピラトには理解できませんでした。ただ彼に分かっていたことは、これはユダヤ人のねたみなどによって引き起こされた内紛であり、イエスには死に値するような罪がないということでした。

イエスを前にして、ピラトには相反する二つの力がぶつかっていました。一つはイエスが死刑に値しないという確信です。もう一つはイエスを死刑にせよというユダヤ人の強い要求です。ここまででなくても社会的に責任を負う立場にあると、自分の信念や筋を通せないことがあります。その場合、どちらを優先させるかは、その人の生き方、信念の問題となります。ピラトの場合、民衆が騒ぎ出すと、自分の統治能力が疑われるかもしれない。しかし罪も見出せないイエスを死刑にするというようなことに関わりたくないとの思いもあります。最後に決断したのは、過越祭に誰か一人は釈放する慣例を利用して、おそらくは絶対に釈放しないだろうと考えていた強盗バラバをイエスの対極に置いたことでした。そうすれば民衆も納得するだろうし、自分もイエスに対しいやなことをしなくてすむからです。ところがこの後の聖書を読みますと、強盗のバラバであっても、民衆は彼の釈放を求めたのでした。イエスではなかったのです。ピラトはこれ以上イエスを守るのをやめました。治安維持と行政の安泰を求めたのです。それがこの世で人間が動く原理です。

ピラトはイエスに「真理とは何か」と尋ねました。それがどのような意味合いのものなのか、またどれだけ真面目な問いなのかは分かりません。彼にとって真理とは誰か、ならあるかもしれません。自分の上司、皇帝が語ることや行うことに関してです。語られたこと、内容そのものではなく、誰が、どういう肩書きの人が語ったかに重きを置くこの世界は、自分の良心や主体的な考えによってではなく、人の顔、権力大きさによって動いていきます。ピラトは官邸玄関前にいるユダヤ人と、官邸の中にいるイエスの間を幾度か行き来しました。それは心の往復であり、迷いでもありましょう。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14.6)とイエスは言われました。「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(同1.17)ともあります。真理とは他ならぬ、イエスご自身なのです。この方を知らない者は、自分に確信を持てず、それだけ周囲に振り回されやすくなります。そして自らを見失っていきます。わたしたちは真理そのものであるこの方以外のところに、確信を置いてはならないのです。

2020年度最初の礼拝、きわめて異例なかたちで始まりました。新型コロナウイルス感染拡大がとどまることを知らず、人間の命と生活を今も脅かしています。わたしたちはそうした中にあって、注意深く、また忍耐強く歩んでいきたいと願います。何よりもわたしたちのさまざまな苦しみ、悩み、そして罪を主イエス・キリストが担ってくださっていることを覚え、そこに自らを委ねながら歩んでいきたいと思います。

※本宣教はネット配信による礼拝として守られました。
 以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

受難節第6(棕梠の主日)2020年4月5日