なぜ泣いているのか  ヨハネによる福音書20.11-18    2020.4.12  

一昨日の金曜日に十字架につけられたイエスは、その日の夕方埋葬されました。そして3日目のこの朝、イエスは死の墓からよみがえられました。今日はその復活の日、イースターです。この喜びの日をわたしたちの教会は、日本、世界の教会の人々と共に迎えました。あいにくの新型コロナウイルス感染拡大を受けて、今回は皆が教会に集まってお祝いすることはできませんが、それでもキリストの復活はどのような状況にあってもわたしたちに大きな希望と命をもたらすことには変わりはありません。

マグダラのマリアに現れるイエスはヨハネ福音書特有の記事です。この女性はかつて7つの悪霊をイエスから追い出してもらった人で、ずいぶん苦労の多い人生を歩んできたと想像します。やがて信仰者になり、それ以降はしっかりイエスについていきました。男の弟子たちがすべて逃げてしまった十字架においても、遺体を引き下ろして埋葬するときにも、さらには復活の朝にも、いつも彼女の名前は出てきます。今日の墓の前で泣いている姿を見ても、この人は本当にイエスを心からあがめ、愛していたことが分かります。

日曜日の朝、マリアはイエスが納められていた墓へ行きました。着いてみると墓の入口をふさいであった石が取りのけられていました。彼女はてっきり誰かによって遺体が取り去られたと勘違いします。そのマリアに復活のイエスが初めてご自身を現されました。しかし人間の思い込み、先入観によって、なかなかイエスに気づくことがありませんでした。彼女は一人墓の前に残って泣いていたのです。ひたむきな愛がここによく出ています。ただその愛は、復活の信仰を欠いた自分の思い込みが中心のものでした。14節にこういう表現があります。「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスが立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった」。見えた、けれど分からなかった、とはどういうことでしょうか。マリアの信仰はひたむきなもので素晴らしいかもしれませんが、それはイエスを死人の中に求めるものでしかありませんでした。彼女は自分の前に復活のイエスが立っておられるのを見ても、それが園丁だと思い込んでいたのです。イエスは亡くなられ、この墓に葬られた。ところが今その遺体が見当たらない。誰かが取り去ったに違いない。マリアはこの延長で考えていたので、よみがえりのイエスに気づくことがなかったのです。約束の言葉が自分のものになっていなかったからです。わたしたちもこうした思い込みによって、多くの大切なことを見過ごすことがあるのではないでしょうか。重要なことは先入観を交えない澄んだ心です。反対に強い自己主張の気持ちに支配されますと、肝心なものを見失いがちです。彼女の熱心さもここでは自分本位のものであり、地上的な愛に縛られていたのでした。

そうした思い込みに支配されていた彼女が、イエスに気づいたのは名前を呼ばれたときでした。「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った」(16節)とあります。それまでの「婦人よ」から「マリア」という固有の名前に変わったのです。マリアが自分の前におられる人が園丁でなくイエスであることに気づいたのは、その名前を呼ばれたからでした。「名を呼ぶ」。これは信仰の世界では大変重要です。それは神の選びであり、招きを意味しています。イエスは以前ご自身のことを「良い羊飼い」と言われ、「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す……羊はその声を知っているので、ついて行く」とその関係を語られました(ヨハネ10.3-4)。名前にはその人のこれまで歩んできたすべて、成功と失敗、嬉しかったことや悲しかったことのすべてが込められている全体です。イエスはそのような思いを込めて、マリアという名前を呼ばれたのでした。

マリアも含めて弟子たちがイエスを先生と呼んだのは、まだ地上の生活を共にしていたとき、彼らの指導者として存在していたときの呼び名です。復活のイエスに対して、先生という言葉はここでしか見られない珍しい言い方です。その後は「主」という呼び名が使われるようになります。そうであるならばマリアがここでまだ先生(ラボニ)と呼んだのは、今自分の前で起きていることを正しく理解していなかったことになるのではないでしょうか。それを裏付けるかのように、この先生という言葉の後、イエスは彼女に対して「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われました。拒否のように響く言葉です。もちろんマリア自身を拒否されたのではありません。ただ先生と呼ばれていた地上の関係、そうしたところで築かれた信仰を拒否されたのです。なぜならその関係は十字架の死と墓で終わってしまう関係にすぎないからです。

わたしたちはイエスを墓の中に求めてはなりません。なぜならそこにはもうおられないからです。墓に行き、その前で泣く姿は愛と信仰の証しになるかもしれません。けれどもそこにとどまっていてはならないのです。もしわたしたちがイエスと共に歩もうとするならば、墓の前にたたずむことではなく、イエスのおられる所にいるべきです。そのおられる所とは、墓の中ではなく墓の外です。復活の主キリストは信仰者の交わりの中に、その信仰の中に、そしてわたしたちが共に祈るその祈りの中におられるからです。墓とそこに残された亜麻布は古い世界、古い自分であり、そこにこだわるのはたとえ熱心であっても人間的な思いから出たものにすぎません。わたしたちはそうしたものから目を離して、すなわち墓の方向ではなく、マリアが後ろを振り向いて復活のイエスに出会ったように、墓の外に方向転換しなくてはなりません。最後の18節でマリアは弟子たちのところへ行き、「わたしは主を見ました」と告げました。この「見る」こそ、信仰に基づく、復活のイエスを認めたところの見るというものでした。それこそ地上的な「ラボニ」(先生)でなく、「主」(それは復活の主のこと)を見たという信仰に至ったことだったのです。その復活の主イエス・キリストがこの朝、わたしたちにも訪れてくださいました。イースターおめでとうございます。

※本宣教はネット配信による礼拝として守られました。
 以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

復活節第1(イースター)2020年4月12日