153匹の魚    ヨハネによる福音書21.1-14    2020.4.26 

ヨハネによる福音書最後の21章では、それまでの場所エルサレムでなく、イエスや弟子たちの故郷であるガリラヤ湖畔(ティベリアス湖)の出来事が語られています。ここに7人の弟子たちがいました。ペトロ、トマス、ナタナエル、「ゼベダイの子たち」とありますからヤコブとヨハネの兄弟でしょう。それに名前は出てきませんが、さらに2人の弟子がいました。ペトロが漁に出るということで、他のみんなも一緒に行くことになりました。いったいこの光景は何を意味しているのでしょうか。彼らはイエスから招かれた使徒でした。一度はイエスの十字架につまずいて去りましたが、それでも再び彼らは主に遣わされた者と立てられたはずです(21.21)。それなのにどうして今故郷のガリラヤに戻ってきて、以前のように漁をしようとしているのでしょうか。まるで使徒をやめて、元の漁師に戻ったように見えます。しかもここに出てくる弟子たちは、何か元気がありません。そんな気持ちを映し出すかのように、この夜は魚がとれませんでした(3節)。このことは単に魚がとれなかったというだけでなく、信仰においても大切なことを示しています。

イエスの復活は大きな出来事でした。そこからすべてが始まったといってもよいと言えます。反対にその復活の主から心が離れるならば、私たちの生活もこの弟子たちのように旧態依然としたものとなり、喜びのないものになるのではないでしょうか。復活がないかのような生活、それを受け入れない心は無気力につながります。よみがえりのイエスはいつも私たちの傍らにいてくださいます。だからいつも共に歩んでくださる主を信じて歩むことが大切なのです。もしそのイエスから目をそらして自分勝手な道を歩み始めようとすると、たちまち弟子たちと同じように力を伴わない虚しい心に支配されることをこの光景は示しています。じつに信仰と不信仰は隣り合わせなのです。どれだけ信仰歴が長くても、どれだけ聖書の知識があっても、不信仰と隣り合わせであるのは同じです。だから私たちはいつも自分の力だけに頼るのであってはなりません。それは疲れた、表情の乏しい弟子たちの姿が教えているのではないでしょうか。そうではなく、上からの、今も生きて働かれる復活の主に心を向けることが重要なのです。

夜が明けたころ、イエスは弟子たちに声をかけました。「子たちをよ、何か食べる物があるか」。イエスが岸に立っておられたのです。このとき舟と岸との距離は200ペキスでした(8節)。約90mです。それでも彼らはそれがイエスだとは分かりませんでした。春特有の霞がたなびいていたため、はっきり見えなかったのでしょうか。そういう視覚的な意味で、よく見えなかった、分からなかったわけではないでしょう。そこには信仰的な意味が含まれていると考えられます。心、信仰の問題だったのです。このように弟子たちだけでなく、私たちも信仰から離れてしまい、結果として主イエスが見えにくくなることが人生の中でしばしば起こります。特に苦しいときには余計そうです。しかし導きが見えにくくなったとしても、決して導かれていないというわけではありません。

いま新型コロナウイルス感染が日本だけでなく、世界中で猛威を振るっています。わずか12か月ほど経ったばかりですが、この間にすっかり私たちの世界は変わってしまいました。人間の社会が、また一人ひとりの人間がいかに脆弱であるかを知らされています。ウイルス感染は健康だけでなく、学校や職場、家庭や老人施設、それに医療現場とさまざまな生活の場に影響を及ぼし、経済も一挙に冷え込んでしまいました。9年前の東日本大震災も大きな危機でしたし、特に原発事故による放射能汚染は今もコントロールされていません。それは現在のウイルス感染と同じように目に見えないだけに恐れと偏見をももたらしました。まさに神の導きや御心が見えにくい中に、現在私たちは置かれているのです。それでも見えにくくはありますが、導かれていないわけではないのです。

そのようなときでも主イエスのほうからいつも近づいて来てくださいます。また声をかけてくださるのです。鈍くなり、意気消沈している弟子たちに向かって網を打つように命じられました。すると引き上げることができないほど多くの魚がとれたのです。そのとき弟子の一人がイエスに気づき、「主だ」と叫びました。それを聞いたペトロは裸同然だったので上着をまとって湖に飛び込みイエスの方に向かいました。普通は服を脱いで水に入るのですが、彼はあえて上着をまとって飛び込んだのです。主イエスの前では、裸では失礼だと思ったのでしょうか。このあたり、いかにもペトロらしい振る舞いです。

弟子たちが網を引き上げると、何と153匹もの大きな魚でいっぱいでした。それでも網は破れませんでした。153匹、この描写は実に詳細です。153という数字は2千年来いろいろと解釈されてきました。たとえば153匹とはガリラヤ湖に生息するすべての魚の種類であり、イエスの教えはどのような国、どのような人々であっても、世界のすべての人々に宣べ伝えられていくものであるとの解釈がありました。それでも網が破れなかったように、教会はすべての人々を受け入れることができるというものです。また解釈ではありませんが、バッハが「ヨハネ受難曲」の中で冒頭にこの153の小節を用いているのは有名です。

その後、魚を焼きながら、パンと一緒に食事を共にしました。イエスと一緒にする食事は単に肉体の糧を得るというだけでなく、心の糧ともなりました。それは信仰の交わりである食事、さらには聖餐の交わりにつなげてもよいでしょう。いま教会では礼拝を一緒に守ることができないだけでなく、聖餐の恵みにもあずかることができません。もちろんやがてその時は再び来るでしょう。ガリラヤ湖畔の朝の食事、それは今日の時代に比べれば食材としては豊かではありませんが、それでも体だけでなく心を養うに十分なものでした。私たちは主イエスから離れてしまうとたちまち無力な者になってしまいますが、主を信じ、み言葉に養われていくならば、たとえ不安の中にあっても、その只中で新たな力と喜びが与えられます。人を生かすものは肉でなく、霊であり信仰だからです。まさにいまも私たちと共にいてくださる復活のキリストの恵みに他なりません。

※本宣教はネット配信による礼拝として守られました。
 以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

復活節第3_2020年4月26日