私に従いなさい   ヨハネによる福音書21.15-25    2020.5.3 

イエスはある女のことで次のように言われたことがあります。「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(ルカ7.47)。ここには赦されることの大きさと、愛の大きさの関係が語られています。多くの罪を赦された者は、それだけ多く愛するというのです。この言葉を聞くと、かつて教会の迫害者であったにもかかわらず、後には教会の先頭を切って歩んだ使徒パウロを思い浮かべることができます。また今日の聖書に出てくるペトロもその一人です。大きな罪を犯した、その意味では教会の先頭に立つにはふさわしくないように見えるペトロが、立ち直って新たな働きへと導かれていく過程がここに描かれています。

復活のイエスと弟子たちが食事を終えたときの遣り取りです。主はペトロに尋ねられました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。そこでペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。するとイエスは命じられます。「わたしの小羊を飼いなさい」。この遣り取りはもう一度なされます。イエスが問い、ペトロが答える。続いてイエスが命令をされる、「わたしの羊の世話をしなさい」と。これが二度で終わらず、さらに三度目に入りました。「三度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか』」。ここまでくると、さすがに大雑把な性格のペトロでも自分の痛い過去を思い出さずにはいられませんでした。それは「あなたのためなら命を捨てます」(ヨハネ13.37)と公言したペトロが、最後の場面で、しかも一番重要なところで反対の態度を取ってしまったことをです。鶏がなく前に三度イエスを知らないと言ったあの出来事です。このことはペトロの心に癒しがたい傷として、しかも癒されぬまま今も残っていたのではないでしょうか。今イエスとの遣り取りでそれを急に思い出したというより、忘れようとしても決して忘れることのできない痛みとして、いつも心に残っていたのが浮かび上がったということなのかもしれません。三度にわたる問いかけによって、それが鋭く自分の胸を刺し貫いたのでしょう。「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」とあるのはそのためです

わたしたち人間の心の中には何らかの失敗による傷、罪悪感を伴う苦しみといったものが大なり小なりあるものです。それらを解消するには、一つには時間が経過するのを待ってひたすら耐えるなかで癒えていく場合があります。あるいはそうした傷をもたらした原因を思い出さないよう、できるだけその生々しい出来事から離れておくことも考えられます。東日本大震災といった未曾有の災難に遭遇した人々の中には、今でもさまざまな苦しみや悩み、重荷を抱えながら生きている方がおられます。そこには「自分だけが助かってしまった」という罪悪感に似た感情があります。あの地震・津波のなか、遺された人々の中には「あの時ああしていれば」という後悔や、「救えなかった自分が悪い」という自責の念と一緒になった苦しみが内からこみ上げてくると言われています。そのような感情に襲われて、突然涙が溢れてきたり、吐き気を催したり、不安で眠れなかったり、あるいは急に大声で叫びたくなったりすることが身体的反応として起こりうるのです。それは現在まさにその渦中にある新型コロナウイルス感染に苦しむ人々やその家族、医療現場、またそこから生まれる経済危機によって思わぬ困難に直面している人びとの現状にもつながるような思いがいたします。

ペトロにとってそれはつらいことでしたが、イエスはもう一度あの時点に立ち返って、そこから再び始めようとされたのではないでしょうか。決して意地悪をしておられるのではありません。一方に神の怒りがあり、他方で神の愛があります。その怒りと愛が交差した場所こそ、イエスの十字架です。神は傷つけまた癒す方でもあります。「神は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる」とあるとおりです(ヨブ5.18)。それは人間が神の御心から離れ、余りに自分勝手な思いに突き進んでしまっているからです。だから神の怒りが臨むのでした。けれどもそれが目的ではなく、最終的にはわたしたち人間が神のもとに、信仰に立ち返るためのものでした。

ペトロはここで受け入れられ、もう一度新たに使命が与えられました。そのことによって傷が癒されていくのです。それこそがイエスの包み込む愛の深さ、大きさです。後にペトロは自らの手紙の中で、「愛は多くの罪を覆う」と述べています(一ペトロ4.8)。人間は神の愛によって、心の中にある深い傷や罪が覆われ、癒されていくのです。それによって立ち直ることができるのです。傷を負い、自信を失くしていたペトロに対し、「わたしの羊を飼いなさい」と新たな使命が与えられました。「わたしの」羊、すなわちイエスご自身の大切な羊を任せられることによってです。もう一度やり直せる、こんな自分だがイエスは自分を必要としてくださっている。これ以上の癒しはどこにあるでしょうか。傷を癒すには忘れることによってだけではありません。できるだけそうしたことに関わらないことによってでもありません。そうではなくイエスの包み込む深い愛と、そんな弱く崩れやすい者でも必要とされている、そのように自分が受け入れられているという確信、そしてそれを裏付けるかのように与えられる積極的な働き、使命へと召されることによるのです。わたしたち一人ひとりも神から何らかの課題、使命を与えられています。主の呼びかけ、招きによって与えられた課題があり、主がわたしを必要としてくださっています。それが失意のなかにあったペトロを立ち上がらせ、自信を与えていくのでした。イエスは「わたしに従いなさい」と言われました。他のものではなく、また自分だけで生きようとするのでもなくイエスに従って生きる。それはぶどうの木のように、イエスにつながるという関係の中でわたしたちは生きるということであり、そのようにわたしたちは導かれているのです。

※本宣教はネット配信による礼拝として守られました。
 以下のリンクから礼拝の録画をご覧になれます。

復活節第4_2020年5月3日